静電気

また5月がきたよ

 

書きかけの記事をすべて何も読まずに捨てる。こねくり回して、公開するつもりだったのだけれど、止めてしまった。どうしようもない、過去の言葉たち、私のいつだって変わらない気持ちたち。成長のない、ゴミたち。

要らないものは捨てた方が良い。そうでしょう、だって要らないのだもの。

断捨離と呼ぶしかない行為をぼんやりと続けている。意味のあったデータたち、執着という言葉を思う。本当に意味があったんだろうか、フォルダを眺めて思う。どこに意味があったんだろう、どこに意味を見出していたんだろう、思い出せるけれど、本当に意味があったのか、本当はなかったんだと思いながら、消していく。

要らないものが多過ぎる、多過ぎるんだ、全部が過剰だ、汝過剰を愛せよ。

 

本を読まない日も、音楽を聴かない日もない。そういう人間がどれくらい多いのかは知らない。一人ならば、どんな短い時間でも、例えサビまでしか聴けなくても、数ページだけだと分かっていてもそれらに触れる、触れてしまう、触れずには居られない。だって、そういうように生きている、そういうように生きるように要請したのかもしれない、それでも今の私は少なくとも、そうやって生きている。これは習慣で祈りというものなのだろうか。

こうやっているのに、両方胸を張って好きだと言えない自分がいて、笑ってしまう。いつだって自分の好意には自信が持てない、持たなくてもいいのかもしれないけれど、いつだって卑屈だ。一生卑屈なまま生きていくんだろうか。これが私の悪い習慣で、駄目な祈りなのかもしれない。

 

私の精神のチューニングが狂ってしまった。誰か正しく、整えてほしい。私にしか出来ないことなのだけど。元々狂っているだろうという意見もあるだろう。だってこのブログはいつだって、何度だってそんな話ばかり繰り返している、同じ言葉をひたすら書き続ける呪いのノートのように。

とはいえ、それは狂っているという正常さであって、今は狂っているという異常さがあるんだよ。不安定という安定、そんな言葉はないのだけれど、そう言った状態。とにかく、私の正しく狂ったチューニングに戻りたい、戻してほしい。あるいは、新しく整えたい。

映画をみて、本を読んで、食べてのんで、こんな馬鹿げた文を書きなぐっていたら、私はわたしに戻れるだろうか。多分でしかないけれど、自分の習慣を考えて、軌道に乗せようと足掻いている。自分の生き方、聴いて読んで生きること、それが習慣なのだからそのラインに戻すのだ。戻りたいんだろうか、これを機に造り直してしまえば良いんじゃないだろうか。造り直すことは上手くいかないこと、誰よりも分かっている筈なのにそんなことを考えてしまう。

同じところを馬鹿みたいに回っている、自分のしっぽを追い続けて、そのうちしっぽを呑んで、ウロボロスになってしまう。終わらない、終えられない、地獄だ。こんな恥ずかしい、自意識を開陳し続けて一体何になるんだろう、いつだって、何になるのか悩んでいる。繰り返し思い出すのは、書かないのかという残酷な善良さ。読む行為を愛している人間が須らく書ける訳ではない、書きたい訳ではない。書きたい訳ではないのに、残酷だと思っているんだ?笑ってしまうな!

早く安定したい、安心したい。苦しいのはごめんだ、誰も救えないのに、いつだって救って欲しいと思っている。でも同じ位に強く思っている、誰にも私は救えないんだと。誰にも私は救えなくて、救えるのはわたしだけで、だから早く自分だけで完結してしまいたい。

他者の欠落を愛したい、私は欠陥を抱えたい。自己完結したい、私の内側に入る人間をすべて押し出してしまいたいのに。

 

 

会社に忘れものをして、恥をかいて、本を買った。帰ってきて、洗濯機を回している。夜に友人と会う予定だったが、色々あって、延期の流れを作って、延期した。このブログを書いたら、出掛けようと思っている。外は晴れていて、空は青い。彼女はこれを青空と呼ばないかもしれないが、私はこれを青空と呼ぶ。

 

本をまたバカみたいに買って、また紙袋が溜まっていく。沢山の本を買うときは紙の手提げを二重にしてくれるので、大変ありがたい。そしてその紙袋を提げていると私の腕というか肘の内側の柔らかい白い皮膚には大抵赤い水玉めいたものが出来る。それくらいに多分、重たい。

本の重みが私を安心させてくれる、所有物が発生させる重みを私は愛している、だからきっと私の鞄はいつだって重いのだ。耳を塞ぐイヤホンと同じくらい、重みというのは私に安心感を与えてくれる。

外出時に耳を塞ぐイヤホンは私の膜だ、外の世界から私を守る薄い膜。その膜があってさえストレスを感じる人間は多いと思うけれど、私はその膜程度で何とかなる。ひとりでいる気持ちになれる、なんてお手軽なんだろう。勿論、画面を覗けば、そこにはたくさんの人が蠢いていて、それと容易に私は繋がれる訳で、ひとりになんて本当にはなっていないし、外に出ている時点で私のまわりには人間たちがうようよしているので、ひとりになんて本当にはなれない。なれないけれど、耳を塞いでいる間は私はひとりなのだ。

 

撮るものと撮られるものという関係性がずっと好きだ。きっと中学生の頃くらいから私は好きなのだと思う。だからそういう写真集を持っている、写真集なんて基本的には買わないのに。特にその、るもの/られるものが恋人や夫婦関係だと良い。

多分、見せてもらえない表情が見れるからだろう。あの、特別な表情の共有。それを世間に発信してしまうこと。すべてが好きだ。

書くものと書かれるものの関係も好きだが、撮るということに築かれた関係は更に好きだ。何となく前者よりも残酷な気がするからだ。固定されてしまう、変化しないまま残されてしまう気がするのだ。

 

そんな文章を書いて2日ほど放置していた。発酵のことを思う。最近読んだエッセイにも出てきた、発酵。

今日もまた本を買ってしまった。何故なら増税前だから。無理矢理理由を作っては、無駄遣いを許していることは大変許しがたいことだなとは思うが、きっと私はそうやって生きていくんだろう。浅ましい。

 

無駄なことを人とたくさん話してしまう。この舌が、この頭が、わたくしの総てが憎い。憎くて仕方がない。それはそれで味気なく、寂しいことだとあなたは言うのだろうけれど、私はやっぱり隔絶したくて堪らなくなってしまう。鋼の扱いを受けたい、氷の扱いを受けたい。でもきっとそれでは上手くやっていけないだろう。今だってうまくやっていられてないのに。社会的な生き物であるのだから、完全に切り離されてやっていける訳がないのだ。分かっているのだけれど、憧れてしまうのだから仕方ない。

本当の意味で本当に人が嫌いになりたかった。まるで冗談を言ってるみたいだ、いつだって疎ましくて、嫌いなつもりなのに、こんなだから。私の嫌悪は紛い物だ、紛い物だと他人から言われるのは何が分かると叫び出したくて堪らなくなるのに、私は私を偽物だと指摘する。好きだから嫌いなのだろうか、好きなのに嫌いなんだろうか、好きだから上手くいかなくて嫌いたいのか。酔ってるだけなのだろうか、自己に。いつだって、汚くて、おぞましい精神性だ。

だからせめて水になりたい、蛇になりたい。冷たくなりたい、淡くなりたい、なりたいのに。離れたいのに、ここに居たくないのに。いつだって上手くいかない。上手くいかないことを疎むなら、前を向きたいと願えばいいのに私は後ろを向きたいと叫んでいる。手に持っているものを増やすのでなくて、減らしたいと私は喚いている。

必要以上に驚いて、笑って、怒って、自虐して。時々笑っている、頭の中で。誰かが、多分、私が。どうしてそんな風にしているの?そんな風にして何になるのと。心底馬鹿にしたような笑いを含んだ声で。何だって過剰にしてしまう、喜んでくれますか、私の過剰を。私の過剰を愛してくださいますか。

 

 

いつだって好ましいのは薄い人間だ。薄く見えるだけで本当はそうではないのかもしれないけれど、それだって好ましい。それはそれで人間の厚みだ。薄っぺらい人間にはなりたくない癖に、薄い人間に憧れてしまうからそういう厚みがあるのは好ましいことであるな、と今更思ったりもする。何もない身軽さに恋い焦がれると同時に、抱えきれない重みを羨んだりする。無いものねだりで、隣の芝はいつだって青い。私はいつだって隣の芝生を羨んでいる、きっとそういう生き方しか出来ないのだろう。

 

淡白な人間にいつだってなりたくて、苦しい。ワナビー願望を私は本当は嘲笑ったりできる人間ではない、いやそういう願望の人間を馬鹿にしている訳ではない筈だし、何かになりたい人間は等しくそのなりたいになれることを願っているけれど、それは難しいことなのだ。だからこそ人間はそういった願望を持つわけで、願えばなれるならば、そんな願望に人は苦しんだりしないのだ、多分、きっと。

すべてに淡白じゃなくたって良い、興味そのものが淡くなりたい訳ではない。何に対する興味だけを保持していたいかといえばそれは本で、フィクションで。そのくせ、それ以外の興味は総て消えてしまえば良いのに、とも思う。本当に、本気で、痛々しいのは承知で思っている。

総てといったが、実は概ねのところ人間への興味だ。そんなものは無意味で、要らなくて、汚い、そんなものなくたって生きていけるのだ。いや変わり者だと言われるかもしれないけれど、興味の薄い人間は大抵そういうった視線をそうですかと流している、気がする。気がするだけでそれなりに気にしているのだろうか、分からない、私が知っている気がしているそういう人たちは大抵気にしない性質な気がする。これは私の彼らの対する憧れに基づく願いなだけかもしれないが。

存外虚しいことらしいが、私には分からない。隣の芝生だな、またとは思うけれど。

 

私個人の面白味の無さを無理矢理覆い隠そうとする度に、何かが滑っていく。私の面白味の無さを覆い隠す為のベールは私に馴染んで、気持ちが悪い。隠せている訳ではないのに、取り繕ったような気持にさせるそれが気持ち悪い。

すべて諦めてしまいたい。何も望みたくないのに。誰にも何にも、自分にも期待せずに居られたらいいのに。触れられれば触れていて欲しくなる、人間関係なんて今ある分で十分事足りていて、満ち足りていて、何も要らない。もう何も要らない。私の内側にこれ以上触れてくる人間は増やしたくない。交流なんて幻想だ、幻覚だ、妄想だ。すべては上っ面だけで、内側に入り込んできたりはしない。しないのに、入り込んだような気持ちになって、勝手に期待して、勝手に。なんて身勝手なんだろう、身勝手な期待をしたくないからすべてを切り取ってしまいたい。私は極端な人間なんだ、極端だから入力も減らしたいのだ、すべて減らしたい。入り込めば入り込むほど苦しくなる、苦しい。何もないのに、何もないはずなのに、刺さってもない刺が深く刺さって、抜けないんだと一人で叫んでいる。イカれている、本当に。

 

 

 

書かない方が安定していると言うし、そうなんだと思う。この言葉は誰に為でもないのだと思うと、ただの吐き出しであり、そう思うと吐き出さないでいられる状態は安定してると思う。安定がとにもかくにも、最上に良いことだなんて言いたくないけれど、やっぱり良いことなんだと思う。

 

最近は足元が本当にぐらぐらしている、安定からは程遠いと思う。何だかんだこれまでの人生安定していたのだと思う。そりゃあ穏やかな気持ちではなかったけれど、自分の立っている地面は固くて、安定しているものだと思っていた。だからこそ、何とかなっていたのだと思う。甘えるところがあったのだと、大人なら言うだろう。きっと私も無自覚的に思っていたのだと思う。

どうしてそんな風に思えたんだろう、私の立っている地面はずっと固いんだって。本当は私の地面はそんなにしっかりしたものじゃなかった。今だって固い地面の下はぐらぐらと揺れているような気がする。中身はスカスカかあるいは柔らかくてぐにゃぐにゃで崩れそうだ。固くて安定した、安全な地面。それは幻想だったのかもしれない、いやそうだったのだけれど、変化したのかもしれない。分からない、でも今はそんなに安定したものではないのだと思う。

 

私の人生ではないから好きにしてほしいと思う反面、私の人生の根幹であるから変わらないでほしいと思ってしまう。でも彼らは彼らなのだ。私の一部ではない、私が彼らの一部ではないように。私たちは勘違いしてしまう、何故なら彼らは私たちが生まれた時から親であるから。彼らも昔は私たちだった、親ではなかった。親は親として生まれるのではない、親になるだけで。私たちは忘れてしまう、彼らにも私たちの人生があったことを。

いつか聞かれるのだろうか、どう思うか、と。私はどう答えるのだろう。最近、近いことを聞かれたが、思ったよりも何も浮かばず、浮かんだ言葉は少し間違っていたように思う。何も聞かれないのかもしれない、突然打ち切られるのかもしれない。分からない。彼らは彼らだから。私は彼らには含まれてない。

 

人生は色々ある、あるけれどなくてもいいのに。せめて後から笑って言うような色々であって欲しい。これは今の私の人生におけるドラマとして、欲していない。本当に自己中心的な意見で申し訳ないが。

 

と書いていた8月のこと。何も現状は変わらない、変わらないことは望ましく、恐ろしい。見えない部分に蠢く、黒いもの。どう足掻いたってそれは消えてくれなくて、それどころか日に日に大きく、澱んでいくのかもしれない。それが襲い掛かってくる日が私は本当に恐ろしい。

考えたくないのだと言っているけれど、考えないことは恐ろしいし、考えても仕方がない。私に出来ることは一体何がある?何もない。出来ることは選択することと急速に自立することだ。考え過ぎなんだろうか、考え過ぎなんて私に出来る訳がない。

すべてが元の通りに戻ってほしい、アブラカタブラ、呪文を唱えて、元通りに!そんな風になってくれれば、どれくらい幸せだろう。魔法使いに私はなりたい。

仲良くない弟とでさえしんみりしてしまう。私にも彼が悲しいとかなしくなるという気持ちがあるのに、少し驚いてしまった。我ながらなんて冷淡な人間なんだろうと笑えて、人間的なところが私にもきちんとあるのだな、などと彼の少し涙混じりの声を聴きながら思ってしまった。こんなにも共通して、こんなにも悲しみを分かち合える存在は彼をおいて、この世界にはいないのだと、今更ながらに思う。

いつだって姉弟仲を説かれる度に、糞喰らえと思っていた、今も多分こんな夜中でなければ唾を吐いているだろう。それくらいには私は酷い人間だ、私が大人になれてないだけだという事は分かっている。どうしてこんなに彼には歩み寄れないんだろう、いつも分からない。もっと優しく出来ないのかと思うし、今更どうしてそんなことが出来るのかという思いと、今更もクソもあるかという思いがぐるぐると周り回って、結局いつも通り、恐ろしく冷ややかな私がいるのだ。まあ、彼にはといったがそんなに人間に歩み寄れるタイプでもないだろうというツッコミは控えて頂きたい。そんなことは私も分かっている、私は陰湿な人間だ。話が大分反れてしまったし、何の話をしているのか分からなくなってきたが、まあ、姉弟仲を説かれる度に頻出するこの世で唯一の姉弟なのだからという部分がそうなのだなと、当たり前すぎて、何を言っているんだろうと思うが、そうなのだなと思った訳で。

当事者には分からない、第三者には理解してもらいたくない、唯一許される共感は彼にしかないのだろう。逆もまた然りで、彼にとって私はそうなのかもしれない、まあ彼はそんなことは考えないかもしれないが。

もう戻らないと分かっている。だって、あんな言葉を、あんな涙を見て、元通りになってくれだなんて。死ぬまで苦しんでくれ、私の人生のためにと言える強さが私にはない。零れた水が盆には戻らないことを私たちは諺から知っている。諺を調べてみたら由来で微笑んでしまった。何も面白くないのにね。

 

いつも通り、本の話でもしましょう。それ以外に話す事が何もない。語る言葉なんて持たない癖に、いつだって話したいことは本の話だけで、でも殆どの人間とは出来ないからいつだって苦しい。別に誰とも話さなくてもいいのに、そんな風にも思ってしまうから、私はきっと話すことを望んでいるのだろうな。人間のことが嫌いだと思うのに、やっぱり好きなんだなと思うと格好つけているだけのようで、紛い物のようで苦しくなる。嘘つきだ。

今日ので今年100冊読んだらしい。今年度の目標は殆ど達成できてないに等しいが、確か今年の目標は100冊だった気がするので、達成できたのは良かった。去年は全然だったはずだから。

冊数には何の意味もないことは分かっているし、そこにこだわっている時点で駄目なのだということも分かっているのだけれど、何かを継続している証拠にはなるのではないか。習慣と継続は祈りだと思う。私にはこれしかないのだ、多分。これならば少なくとも趣味を強いて言えば読書と言っても許されるのではないかと思ってしまうのだ。平均月10冊読書する時間をどうにかして捻出しているという事実は、読書を趣味と呼ぶだけの証拠足りえるのではないかと、思ってしまうのだ。

まあこのまま読んでいけたらいいよなあと思っているのだ。何を犠牲にしているのかをもっと考えるべきなのだと思うのだけれど、仕方がない。だってすきなのだから。こうやって好きであると言えるだけ幸せなのだろう。好きで良いのだろうか、私のこれは。毎回そんなことばかり言っているな。そして、何だか現実から逃れているだけな気がするのだけれど、これは正直なところ、小学生の頃からだろう。なんで貴方の友達は図書室や資料室だったの?思い出してみて。

 

 

結局のところ、私は誰のことも愛せないのだと思う。

ある意味で誰のことも好きにならずに生きてきたのかもしれない。ずっと誰かのことを好きであると思って生きてきたけれど、少し間違っていたのかもしれない。多分きっと誰のことも本当には好きになれないのだろうと思う。きっと誰にも夢なんて見れない。

私の好きは生存戦略だった。人生を少しだけマシに生きるための戦略。好きな人間がいる空間は素敵だ、話せたら、いや姿を見れるだけで少し心が浮き立つ。だから好きな人間が居た方が人生は楽しい。そんな馬鹿みたいに単純な感情だ。君はこれを性欲の一形態と呼ぶのだろう。否定は出来ないだろうし、しないでおこう。たとえ事実だとしても不愉快な気持ちはいつだってつきまっているが!

性欲を汚いものではなく、自然なものであって、自己嫌悪の対象ではないのだと再三言っておきながらも、自分のそれを性欲と一括りにされるのはいつだって不愉快で、馬鹿みたいだと思う。誰がいちばん汚いと思っているのか、それはきっと私だった。

 

それはどうだっていい。良いのか分からないが、こういう文章を綴ること自体が馬鹿げている気もする。状態に酔っているようで、気持ちが悪い。加害者はヒロイズムに浸ってはいけないので。

そんなことを思いながらも、移り気を不誠実ではないと思っているような口ぶりには反吐が出そうになる。私は移り気になる前に死んでしまいたい。責められるのは嫌だが、責められても仕方ないが、責めてない顔で責めている人間ほど、嫌悪するものはないな。

とはいえ既にこんな発想が出ている時点で私は駄目なんだろうと思う。結局のところ、私は母と似ているんだろう。あの人と何が違ってないんだろう。こんなにも腹立たしいのは彼女が自分のようだからなんだろうか。

 

楽しいだけで良かったならこんな話はしないで良かったのだ。楽しいままで、一生このまま楽園で暮らして居られたら良かった。歳なんて取りたくない。楽しいままで居られないから、こんな話をしているのだ。

どこまでもすれ違って、うまくいかないと思ってしまう。私の思っていることは全然伝わっていないのだと、この話の度に断絶を、空いた穴をどこかに見つけてしまって苦しくなる。やっぱり私が悪いんだろうか、いつだって私はうまく伝えられない。

 

苦しい、言葉が暴れている。悲しみは自慰だ。不必要な言葉で嬲ったら、満足して頂けるんだろうか。すべてが重たく、厭わしい。

こんな呪詛を書き散らして、何になるんだろう、こんなものを書いてしまった時点で私は負けていると思う。何にだろう、何に負けたんだろう、良く分からない。これ以上何も考えたくない。私がわたしらしく生きられない障害はすべて取り除きたい、そんな自己が存在しているのか分からないけれど。

自分を、周りを、何もかもを投げ捨ててしまいたいよ。

 

総括にすらならない

あの曲を聞くといつだって思い出すのは7月の事。音楽もしっかり記憶と結び付いて、分かちがたいものになるのだなと思ったりして、3月。

スマホを変える度、日記が消えてしまうのは不便だが、手書きよりも楽で甘えてしまう。今の私は仕事を辞めたい、出来るなら今すぐにでもという状態。朝起きたら怖くてしょうがない。一体何が怖いのかよく分からない。といったことを5月の末に記していた。あなたはもうそれを辞めているよ、と昔の文字に話しかける。少なくとも今の私は朝が怖くない。

明日は休みで、調子にのって午前2時を過ぎても起きている。眠たい。デッド・オア・アライブ、ぐるぐるそんな言葉が回っている。生き死になんて大袈裟だ。といったことを綴る6月の頭。何の話か全く分からない。仕事を辞めたくて、そんなことを考えていた気がする。覚えていないが、すべてが悪い意味で仕事と結び付いて、分かち難かった。

去年の今頃、何をしていたかしらと冬の光を見て思う。あのままあそこに居ていたら、今頃何をしていたかしらとも、思う。過去のことは思い出せないし、もしもことは分からない。
私は生きていて、あの人たちもあそこで変わらず生きていて、地球は今日も自転して。まるで何か変わったかのようだけど、本当のところ、何も変化はないのだ。と呟く11月下旬。またもや過去に引っ張られている。いつだって私は過去を見つめてしまう。

記憶はいつだって淡く溶けて消えていきそうだと思う。砂糖菓子のようであって欲しいのかもしれない。本当は重くドロドロと溜まって、こびりついて消えないものだったりして。忘れたくない気持ちだけはいつだって簡単に忘れてしまうのにね。

久し振りに書いた創作物は上手くいかない。気が済むまで捏ねて、飽きたら捨てれば良い。気が済むまで捏ねようと思えるならば、私には充分ではないか。

アウトとインのバランスはいつだって狂っていて、心もそれに引っ張られて狂いがちだ。いつだってアウトが多すぎる、それも低品質の。アウトを見直して、量を減らすと気持ちが少し気持ちが和らぐ。今はリバウンド中、穏やかにいきたい。アウトを減らすこと、減食のあとの過食が怖いようなもの。

ものへの執着。ものが少数精鋭の人間のエントリを読む。現実逃避ばかりしていられないから、自室の掃除をする。そうすると嫌でも向き合わなければいけなくなる。私を私たらしめていると思いたいものたちと。その醜い姿!ああ、美しいものたちを貶めていると思う、私が所有しているから。所有しているだけだから。中身を見つめたいのに、いつだって背表紙を見つめるばかり。

休みだから人間と会う。どうせ上手く出来ないけれど、上手くやらせて、どうかと願う。誰にだろう、やるのは私でしかないのに。どうしたって醜くしかあれないけれど、舌を引き抜きたいと頭を抱えずにいたいのよ。喋りすぎるのも欠損だ。

どうしたっておちゃらけたような人間をやってしまう、まるで道化だ。バカな人間である癖に、バカだと思われるのは苦しい。自信なんてないはずなのに、これが自信なんだろうか。全部捨て去ってしまいたい。

私から考えなく出てきた文章たち、いつだって同じところをぐるぐると馬鹿みたいに回り続けていて、可愛らしい。
誰にも読まれない、誰にも刺さらない言葉たち。何だかんだ文字にして、安心していて、一生アウトは良質にならない。それでも私はこうやってスマホのメモに書き溜めて、吐き出して、ぐるぐる回る。そういう生き方なんだろう。
望んだ形ではなかったけれど、帰り道で思わず顔は綻んでしまった。苦しいことは嫌いだ、それでも私はたぶん人よりも苦しまずに生きられない。苦しんで生きることしか多分出来ない。不必要な苦しみが生に必要な、下手な生き方しか出来ない。手放したかった、苦しみなんて。でもきっと無理なのだ。いつだって選んだものを拒否して、あちらが良かったと唇を噛む。馬鹿げている、分かっている。それでもそういう人間としてやっていくしかない。そうやって書いた今月。
また4月がきて、5月になる。こうやって書き続ける。

つくる

この世は誰が作ったもので出来ている。それにいちいち劣等感を抱いていたら、やっていかれない、精神は瓦解するだろう。誰かの奏でた音楽、誰かの書いた文章、誰かの撮った映像。
この文章を書くアプリケーションも誰かが組んだもので、私は誰かの作った何かに日々支えられて、生きているのだ。何かを使う度に、その根元に誰かがいるのを考えていれば、日常生活を送る際の思考は混沌を極めるだろうし、私にはそこまでの事を考えるべきだとは思えない。他の人間だってそう思うだろうけども。大学の講義で聞いた症例を思い出す、これとは何も関係がないけれど。

誰かが書いた文章に心を動かされるけれど、それと同時に心が苦しくなるのはどうしてだろう。きっと勉強不足だ、もっと書いてから言えとあなたならばそう、私に言うだろう。私にそれを否定する事は出来ない、何故ならそれは本当に正しいことだからだ。心のどこかが軋んでしまうであろうことを思う。
人はただしいことを、きちんと受け入れられる訳ではないと思う、私は弱さ故にただしいと思うことを頭は解っていても、心が分かってくれない。

これはすべて承認欲求による葛藤なのだろうか、そうではないだろう。勿論、承認を得られたという幻想は喜ばしい。でもすべてはそれによるものではないと思う、分からんけど。
生み出したい気持ちがあるにも関わらず、生み出せないということが、私は苦しい。一応の納得を迎えられないこと、創作物に完全の納得をする創作者はいるのかだろうか。私は自らの作品にその時点では納得を、妥協だと言われてしまうかもしれないが、一時的な納得を、安寧を得たいと思ってしまう。創作者は完全なる作品の夢を見るか?
いまの私には一時的な納得を得られる作品を書くことなど出来ないでしょうとあなたは言うだろうし、私はまたもや否定する事など叶わない。

どうして言葉を扱いたいなど、思ってしまうのだろう。どうして、こんなに普段使ってる言葉をうまく扱いたいだなんて、そんなことを願うのだろう。馬鹿げてる、馬鹿げているのにずっと願っている。私の熱量を、何にもならないこの気持ちを、エネルギーの転換をいつだって望んでいる。

言葉は素敵ですね。きらきらしていて刺さるし。私だって使っている、でもこれってあなたが使っているものと一緒なんでしょうか。交換して下さいませんか、馬鹿げた言葉がぐうっとあがってきてしまうんだわ、午前2時。

何だかんだ書いてしまったら、出してしまったら、それなりの愛を持って書いたのだからって、馬鹿ですか。とにかく何かしらの評価が、あるいは感想が欲しくなってしまうのだわね。嫌なことです、これが承認欲求でしょうか。作ることに満足できる、自己完結が出来る人間であれば、良かった。
でも作品だってコミュニケーションの踏み台になっちゃったりして、ってことは私が求めてるのは正統なその作品への評価ではなく、それにまつわるエトセトラ。つまるところは、コミュニケーションなのかしら。

たくさんの無言の評価よりもたった1人の声を私はどこかで望んでいる。どうか生み出したこと、悪いことでなかったと言ってくれ。