静電気

また5月がきたよ


完璧な形などなくどこか歪なままで、そのことに気付かず、あるいは目をそらし続ければ、どうにかなったかもしれませんが、そんなことは無理でした。
あるいは完璧な形はあるのだと信じたら良かったのかもしれません。良かったのかもしれません、と思うこと自体が裏切りであるようにも思います。
愛さなければならない、愛したいから、私にとっては同義です。愛してしまう側の人間には分からないことです。
でもそれは最初だけで、あとは愛したいからあるいはならないからが、残ります。
あぐらをかいたものを疎んでいたはずなのに、自分がそれであるように思われて、しかしそれでは信じてないようにも感じられて、とはいえそれはただの自己弁護でしかないのかもしれません。
私にはひとなど救えません。分かっていてなおそう言われれば信じてしまう位には、夢を見ていました。
救えるならと吐いた言葉は私にはとても汚く感ぜられて、優しさとは対極のそれとしか思えず、すべてが嘘のようなそんな気でさえいました。
救えないのに救いたいと思ったのが駄目だったのかもしれません。少なくとも私には不可能なことなのだと思っているべきであったような気がします。
本当に嫌ってくれたら、特別になれると思いました。今では嫌われるということがひどく恐ろしく、それは当たり前であることであって、見えていないであろう執着はきちんと自分のなかにあって、弱いような、安心するような気持ちでいます。
捨てられたなら未練がましくいるでしょうが、捨てたものを懐かしむ気持ちは、たしかに私のなかでは薄いように思われました。
どこにもいけないまま、それでもいいとどこかで思って、どこからどこまでが嘘なのか、それともすべてほんとうに本当なのか、自分でさえも信じられず、それさえもただの自己愛の表現なのか、分からないままです。
死にたいと思うことが減ったという事実、それは抑えているだけなのか、本当に作用なのか、後者であることを望んでいるのは嘘ではなく、好意も、眠れるようにと思うのも、嘘ではないのです。