静電気

また5月がきたよ

師が走れ

 

2016年も終わりそうですね。

前回から1ヶ月も経っていて、こんなことならば1月1日に予約投稿でもしたらよいのではないかと思ったのだけれど、何となく、書いておこう。新年の目標はここに書くか、それとも書かないか少しばかり悩むね。やっぱりちょっとそれって恥ずかしいからね、大事なことっていうかそういうのって明言するより、滲んでいってほしい、みたいな気持ちがなくもないです、難しい。

 

あの後、1度だけあの古本屋に行って、単行本を割と安く手に入れてきた。

古本はあまり買いたくない、と思っていたのに、最近2冊買ってきました。わざわざネットで買うより安いかその場で計算したりした。まあまあ良い状態なのでは?と思って、買ったというのもある。古本を買うのが趣味な人には怒られそうな考えなんですけど、やっぱり本は本屋で買うのが良いと思っていて、あとそっちの方が贅沢だなとか。改めて、本ってまあ贅沢品だな、と思ったりして、どうしてかっていうのをきちんと伝えられないのですけど。

 

意外と何をこの1ヶ月の間やっていたか思い出せないものだね。

たしか7年という時の早さに驚いたりしていた気がする。つい先日のようであるな、と思ったりするのだけれど、しっかりそれだけの時は経っていて、変な感じだ。7年前の自分に会えたら何て言うんだろうね、特に思いつかない。まあ、本をたくさん読めよ、と言っておきたい。日本文学とか、そういうのも読んでおくと楽しいかもよ、といった感じのことを。

何だかんだ私は人生塞翁が馬というか、そういうところがある感じの中学高校生活だった気がするので、言うべきこととかあまり思いつかないのだよね。高校受験のためにいっぱい勉強しておけよ、とも思うけど、学校生活の中でいちばん充実した楽しい時期が高校だったので、失敗して良かったのではないかと思うし。何があるか分かんないよね、という感じ。人生塞翁が馬という表現、ズレている感じがするんだけど他に思いつかない。祖父に言われてそうだなあと思ったから覚えているのかもしれないね。

友人が久し振りに帰ってきて会えたのも良かったな。すこしだけ行った美術館の話とかそういうことが出来たのが楽しかった。結局私はおしゃべりで自分のすきなことを話すのが好きらしい、けどそれは誰でもそうな気がする。こういう話は友人でもできる人が限られているので、とても良かった。

忘年会と称した鍋も出来たので良かったな。おいしく楽しい会だった。この歳になって1つのトランプゲームをあそこまで楽しめるものなのか、となったりした。とはいえアルコールの力のせいかもしれないので、この歳にならないとそれは無理な話であるね。

なんだか、無理やり思い出してみると、思い出せたし、楽しい思いをいっぱいしたようであった。他にも色々楽しいことはあったわけで、もっと楽しいことばかりではなく、努力とかそういうつらいこともしなよきみ、という気持ちにならなくもない。

 

さっき積読を数えたら66冊もあって、来年はどうなっているのだろうな、と思った。確実に2015年から積んでいるものもあるので、まあ増えるのでしょうね。気付いたら100冊とか射程内な感じがして、笑うような、笑えないようなそんな気持ちです。

今年何冊読んだんだろう、100冊は超えているけれど、去年よりは確実に読んでないでしょうね。来年はもっと少ないんじゃないかな、再来年の春が楽しみであるようなそんな気持ち。未来のこと、そんなに楽しみじゃないのだけれど、これに関しては、楽しみという気持ちがもてるね、何でだろう。まあ、きっと読むのが好きだからなのではないかな、分からないけど。

 

最近読んでなかった作者の本を読んだら、私はやっぱりこの作家が好きなんだなあという気持ちになった。再確認、という感じがすごい。やっぱり私にとって、本家というか大本、根源、根本、というかそういう存在なのかもしれないな、と思う。

別にこの作家に出会って、本を読むようになりました、というわけではないのだけれど、今の趣味嗜好みたいなもの、方向性みたいなそういうものに関わっていると思うので、やっぱり大きな存在なんじゃないかなって思うし、やっぱりそれは読めば好きだなって思う単純な好意、というかそういう盲目的になってしまうところは、肌に合っているというか、そういう部分があるからなのではないかなと思う。

正直好きだといったら微妙な反応が返ってきがちな作家のひとりだと思っているのだけれど、実際読んでいたら中高生が好きなやつと言われてしまった。否定はしないし、それが良さだと思っているところもあるし、私の感性がアレだと言われても否定できないし、でもそういう反応をされると、何だかなあ、と思ったりもする。

好きなものを好きだと、きちんと声に出せるのって大事だと思っている。好きなものを恥ずかしがるのってどうなんだろう、と。でも恥ずかしくなる自分もどこかに居て、だからこそ好きなものを好きだときちんと伝えられる人は良いな、と思う。

何においても好きだとかに限らず、自分の気持ちや考えを丁寧に、きちんと伝えられるという人は良いんですけどね。人にきちんと何かを伝えるのって難しいなと思うので。過不足なく伝えられることってきっとないと思うんですけど、そういうのが良い。とはいえ自由度がないというのは問題ないのだろうか、という疑問もあるのだけれど。コミュニケーションだし、というかなんというか。

まあとにかくあの作家さんが好きですよ、本当は。勢いで対談集を買ってしまったので、これが今年最後に読んだ本になる可能性は大。マーカーを引いて読みたい気持ちにさえなってしまうな。

 

あと私はなんだかんだ書かれたものも好きなんだけど、書いた人も好きなんだろうなと思う。書かれたものを見て、どんな人が書いたんだろう、といったようになる、まあ音楽もそうなんですけど。だからエッセイや対談集、インタビューみたいなものが好きなのかもしれないね。自分が思っているより、私は人が好きなのかもしれないな、とこういう時には思う。

祖母と話をして学問における隣の芝は青い話をしたら肯定されたので、そのようなものだよなあと改めて思えたので良かった。文系の人間は割と理系に憧れがち、というか美化し過ぎである、私もそうであったし、今も完全にそこから脱したかといえばそういう訳でもないが、もう前ほど強い憧れは抱いてない気がする。あまりそちらの芝は青く見えなくなってしまった、それは良いことなのかもしれないし、すこしだけ悲しいことなのかもしれない。何故なら、自分は勤勉ではないから、憧れている理系のそれになれないだろうなという思いのためである。それよりも、私が日本の文学を専門する領域にいたとき、何をしていたのだろうな、と考えるのが楽しいことだったりする。