静電気

また5月がきたよ

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Twitterを始めて6年が経ちました。小学校だったら卒業している。

そう思うと、長い間やってきましたね。頻度が落ちることなく、ずっと続いています。

決して褒められたことではないけれど、色々なことがあって、誰もに理解してもらえるなんて思うことはないけれど、やっていて良かったと思うことだって、あります。

 

月が丸い、写真を撮った。つい先日カメラを買った。安いあのフィルムカメラである。

写真は素敵だね、わたしは自分を撮ったり、撮られたりがひどく苦手できっと写真がすきじゃないと思われているけどそんなことはない。写真はすきだし、撮るのもすきだ。下手であるが。無機物を撮るのがすきなだけだ。人間を撮ると撮りかえされるので、それがすきじゃないだけである。とはいえある友人が撮ってくれる私の後ろ姿だったりは嫌いじゃないのであるが。

人がひとを撮った写真集などはすきだ。人がすきなひとを撮ってる、そういうものが特に好きだ。四角に切り取られたそこに日々が、愛が、見えてそれはすごく素敵なことだと思う。切り取られた時間はすごく愛おしい。

 

大人と話す機会というのはあまりない。非常に貴重なものだと思う。

社交性など地を這っていると思っているが、意外と話せたりして、それは相手が大人でここに居るというバックボーンめいたもの、その担保のせいでしょうか。

噛んでしまって、頭に浮かんだことばはきちんと形を持たなかった気もするけれど、一応またいつかお会い出来たら、お話聞かせてください、そう言えたのは良かった。

本が好きなんだね、と言われるとそんなことはないのに、と思う。いや嫌いじゃないし、好きなのだけれど、自分は劣っているとどうしても思ってしまうのだな。私にはすぐれた言語感覚も、テキストを読み解くだけの思考力も知識も何もない。もしかするとすこしの人よりも本の情報を得ることに喜びを感じるだけ、それだけな気がする。

本について知ることは好きだし、1が2になるようにしたいけれど、今の私にはそんなことは到底無理だなとも思う。こうやって何にもならない文章をつらつらと書きならべているだけで、そういうことは出来ないなと。

 

旅行に行った。こんなに行っても、まだ覚えられないバス。きっと旅行者でいる内は覚えられないだろうな。自分で調べていないというのもあるかもしれない。

卒展というものに行く機会など殆どなく、楽しかった。歳が大きく離れていないひとたちのそれは大きく眩しく見える。表現者と鑑賞者の隔たりを少しだけ感じた。でも作るひとはそうであってほしい、そんな歪んだ願望は少しだけ叶えられていて、それは良かったと思う。鑑賞者である私は鑑賞者であるが故に勝手な妄想を抱いていられる、無責任な憧れ。

関西の特有の人間性、そんな勝手なイメージも今回の旅行ではみることが出来て、面白かった。旅先で本を買った。またここの事を思い出すものが増えたなあと思う。貰ったプレゼント、早く組み立てたいなあと思う。ひとりで出た外は寒くて、震えてしまった。こことも違う寒さが違うところに居るんだなあと思わせてくれて、何だか楽しかった。

久し振りに見る魚、何度きても楽しめてしまうね。呼吸音が聴けたのが嬉しかった。

とにかく楽しかったな、前はありがとうがちゃんと言えなかったので、今回はきちんと言えたのが良かった。前より泣かないつもりだったのに、電車が出た途端に目からこぼれおちてきてしまって、どうしようもなかったな。

幸せで楽しい素敵な時間をどうもありがとう。

ひどく凡庸で陳腐な表現でしかまとめられない私をどうか許して。

 

わたしは上手ではないけれどやはり仮面をつけることをしていて、人間生身ではやはり生きていけないんだな、と思う。生身であることは楽なんだろうか、偽らない生は本当に楽なんだろうか、時々考える。剥き身の生はどうだろうか、わたしはどうだろう。そんなに血にまみれた生ではない気がする。

 

色々なことが日々あるのに指の隙間から零れ落ちて、何もなかったようなぼんやりとした感覚が残っている、ような、そんな感じがする。

人生、間違えてばかりでどうしたら正解に辿り着けるのか、どれが正解なのか、最適な人生はどこにあるのか、そんな事を考える。わたくしにとって最善の選択、最適な結果、それ一体何なのか。

いつだって目先のことに囚われているのだって私は本当は分かっている。私の人生、きっと小さなことだけでいったら、適当な、一見楽なそんな選択ばかりできっと間違えてきたのだ。でもどうして、本当に間違えていただなんて言えるんだろう。本当はそんなこと、分かっているのだ。

私は失敗した、地方で県立高校に滑り込めない、それは失敗で馬鹿のレッテルが貼られるのと同意だった。中には県上位の偏差値の高校から落ちてきた人間やそこしか受けられなかった専願から混沌、偏差値のサラダボウル。当時はそれなりに失敗したと思っていたけれど、後からみたら、良かった。それはその後の進路だけでなく、学校生活そのものもきっと私にとっては良い選択だった。間違いは正解になった、そう私は高校を卒業した時に思った。

今だってそれとあまり変わらない状況なのだ、もっとこれからの自分を左右するという点において、変わらないという表現は些か強気かもしれないが。

きっと私はまた間違えたと思う、裏切ったと思う。でも本当にそうなのだろうか、絶対に正しいところに行けなかった、なんて本当はないでしょう、そう思って、そう本当に思えたら、私はどうにかなれるだろうか。結局は私次第でどうにでもなる、本当はどうにでもなったのにどうにもできなかったふがいない自分が居て、でもその後はどうにか出来る、そう思って、頑張るしかないのだよね。

とはいえ、本当はほんとうの意味で取り返しのつかない失敗はこうやって、生まれてきたことなのではないかな。どうか叱らないで。