静電気

また5月がきたよ

 

早く寝なくてはいけないのに、こんなものを書いています。

何も書けないし、これは何かを書いたことにはならないのだけど、結局何かを出力する、吐き出すことによって、均衡を保とうとしているのかもしれない。これで、均衡が保たれるのかは分からない。

 

ここ最近は買ってはいけないのに本を買い、買った後、汗が噴き出てくるという馬鹿みたいなことになっています。映画でクレジットカードを凍らせているシーンが脳内を過る、本は現金で買っていますが。

本屋に行かなければいいのでは、と思うのだけど、行ってしまう。そして、買ってしまう。馬鹿なのでしょうか、それは本当に馬鹿な話だと思う。

映画も相変わらず観ています。劇場に行くというのは、やっぱりとっても贅沢なことなのだろうなと思う、DVDなら十数本借りれちゃう訳で。

でもやっぱり劇場で観たい映画っていうのはあると思うし、無駄だとは思っていない。

 

何かのきっかけで本?ああ、昔は読んでいたよ、という状態にならないと良いなあと積みに積まれた本たちを見て思う。そうなってしまったら、本当にこの本たちは無駄になってしまう。積んでいる時点で、無駄なのでは?という考えもあるんですけど、売りたくない、と思っているならセーフ、セーフなんですよ、多分ね。

 

誰にも嫌われたくないなあ、好きな人とはずっと関係していきたいなあと思うのはばかげているのだと思う。独りよがりなのかもしれない。私が好きな人は大抵私のことがあまり好きではないから。

人間関係というのは更新していくものなのだろう、信じたくないけれど、否定できない。自分だってそうやってこの歳になったのだろうし。人は新陳代謝して生きていくわけで、肉体がそうやっていくならば、精神も変化して、人間関係も同じようにやっていくでしょう。

悲しくなるのは馬鹿らしくて、でもそういうようにあるのが普通なのではないかと思っている。冷たいと言われて、そう考えるのが普通だと思うようになったんだろうか。ほかの人間関係に比べて長く、親しく出来ると思うようになったからこそ、すがるようになったんだろうか。何が自然で、何か不自然なのか良く分からない。ずっと失敗し続けてきたし、これからもそうなんだろう。

ウエットであることで繋ぎとめようとすることしか、私には出来ない。何もないから。あなたにあげようという姿勢しか、私にはないのだ。都合の良い人間であることが、愛されない人間が愛してもらう方法なんじゃないだろうか。その愛に意味があるのかは知らない。