静電気

また5月がきたよ

つくる

この世は誰が作ったもので出来ている。それにいちいち劣等感を抱いていたら、やっていかれない、精神は瓦解するだろう。誰かの奏でた音楽、誰かの書いた文章、誰かの撮った映像。
この文章を書くアプリケーションも誰かが組んだもので、私は誰かの作った何かに日々支えられて、生きているのだ。何かを使う度に、その根元に誰かがいるのを考えていれば、日常生活を送る際の思考は混沌を極めるだろうし、私にはそこまでの事を考えるべきだとは思えない。他の人間だってそう思うだろうけども。大学の講義で聞いた症例を思い出す、これとは何も関係がないけれど。

誰かが書いた文章に心を動かされるけれど、それと同時に心が苦しくなるのはどうしてだろう。きっと勉強不足だ、もっと書いてから言えとあなたならばそう、私に言うだろう。私にそれを否定する事は出来ない、何故ならそれは本当に正しいことだからだ。心のどこかが軋んでしまうであろうことを思う。
人はただしいことを、きちんと受け入れられる訳ではないと思う、私は弱さ故にただしいと思うことを頭は解っていても、心が分かってくれない。

これはすべて承認欲求による葛藤なのだろうか、そうではないだろう。勿論、承認を得られたという幻想は喜ばしい。でもすべてはそれによるものではないと思う、分からんけど。
生み出したい気持ちがあるにも関わらず、生み出せないということが、私は苦しい。一応の納得を迎えられないこと、創作物に完全の納得をする創作者はいるのかだろうか。私は自らの作品にその時点では納得を、妥協だと言われてしまうかもしれないが、一時的な納得を、安寧を得たいと思ってしまう。創作者は完全なる作品の夢を見るか?
いまの私には一時的な納得を得られる作品を書くことなど出来ないでしょうとあなたは言うだろうし、私はまたもや否定する事など叶わない。

どうして言葉を扱いたいなど、思ってしまうのだろう。どうして、こんなに普段使ってる言葉をうまく扱いたいだなんて、そんなことを願うのだろう。馬鹿げてる、馬鹿げているのにずっと願っている。私の熱量を、何にもならないこの気持ちを、エネルギーの転換をいつだって望んでいる。

言葉は素敵ですね。きらきらしていて刺さるし。私だって使っている、でもこれってあなたが使っているものと一緒なんでしょうか。交換して下さいませんか、馬鹿げた言葉がぐうっとあがってきてしまうんだわ、午前2時。

何だかんだ書いてしまったら、出してしまったら、それなりの愛を持って書いたのだからって、馬鹿ですか。とにかく何かしらの評価が、あるいは感想が欲しくなってしまうのだわね。嫌なことです、これが承認欲求でしょうか。作ることに満足できる、自己完結が出来る人間であれば、良かった。
でも作品だってコミュニケーションの踏み台になっちゃったりして、ってことは私が求めてるのは正統なその作品への評価ではなく、それにまつわるエトセトラ。つまるところは、コミュニケーションなのかしら。

たくさんの無言の評価よりもたった1人の声を私はどこかで望んでいる。どうか生み出したこと、悪いことでなかったと言ってくれ。