静電気

また5月がきたよ

総括にすらならない

あの曲を聞くといつだって思い出すのは7月の事。音楽もしっかり記憶と結び付いて、分かちがたいものになるのだなと思ったりして、3月。

スマホを変える度、日記が消えてしまうのは不便だが、手書きよりも楽で甘えてしまう。今の私は仕事を辞めたい、出来るなら今すぐにでもという状態。朝起きたら怖くてしょうがない。一体何が怖いのかよく分からない。といったことを5月の末に記していた。あなたはもうそれを辞めているよ、と昔の文字に話しかける。少なくとも今の私は朝が怖くない。

明日は休みで、調子にのって午前2時を過ぎても起きている。眠たい。デッド・オア・アライブ、ぐるぐるそんな言葉が回っている。生き死になんて大袈裟だ。といったことを綴る6月の頭。何の話か全く分からない。仕事を辞めたくて、そんなことを考えていた気がする。覚えていないが、すべてが悪い意味で仕事と結び付いて、分かち難かった。

去年の今頃、何をしていたかしらと冬の光を見て思う。あのままあそこに居ていたら、今頃何をしていたかしらとも、思う。過去のことは思い出せないし、もしもことは分からない。
私は生きていて、あの人たちもあそこで変わらず生きていて、地球は今日も自転して。まるで何か変わったかのようだけど、本当のところ、何も変化はないのだ。と呟く11月下旬。またもや過去に引っ張られている。いつだって私は過去を見つめてしまう。

記憶はいつだって淡く溶けて消えていきそうだと思う。砂糖菓子のようであって欲しいのかもしれない。本当は重くドロドロと溜まって、こびりついて消えないものだったりして。忘れたくない気持ちだけはいつだって簡単に忘れてしまうのにね。

久し振りに書いた創作物は上手くいかない。気が済むまで捏ねて、飽きたら捨てれば良い。気が済むまで捏ねようと思えるならば、私には充分ではないか。

アウトとインのバランスはいつだって狂っていて、心もそれに引っ張られて狂いがちだ。いつだってアウトが多すぎる、それも低品質の。アウトを見直して、量を減らすと気持ちが少し気持ちが和らぐ。今はリバウンド中、穏やかにいきたい。アウトを減らすこと、減食のあとの過食が怖いようなもの。

ものへの執着。ものが少数精鋭の人間のエントリを読む。現実逃避ばかりしていられないから、自室の掃除をする。そうすると嫌でも向き合わなければいけなくなる。私を私たらしめていると思いたいものたちと。その醜い姿!ああ、美しいものたちを貶めていると思う、私が所有しているから。所有しているだけだから。中身を見つめたいのに、いつだって背表紙を見つめるばかり。

休みだから人間と会う。どうせ上手く出来ないけれど、上手くやらせて、どうかと願う。誰にだろう、やるのは私でしかないのに。どうしたって醜くしかあれないけれど、舌を引き抜きたいと頭を抱えずにいたいのよ。喋りすぎるのも欠損だ。

どうしたっておちゃらけたような人間をやってしまう、まるで道化だ。バカな人間である癖に、バカだと思われるのは苦しい。自信なんてないはずなのに、これが自信なんだろうか。全部捨て去ってしまいたい。

私から考えなく出てきた文章たち、いつだって同じところをぐるぐると馬鹿みたいに回り続けていて、可愛らしい。
誰にも読まれない、誰にも刺さらない言葉たち。何だかんだ文字にして、安心していて、一生アウトは良質にならない。それでも私はこうやってスマホのメモに書き溜めて、吐き出して、ぐるぐる回る。そういう生き方なんだろう。
望んだ形ではなかったけれど、帰り道で思わず顔は綻んでしまった。苦しいことは嫌いだ、それでも私はたぶん人よりも苦しまずに生きられない。苦しんで生きることしか多分出来ない。不必要な苦しみが生に必要な、下手な生き方しか出来ない。手放したかった、苦しみなんて。でもきっと無理なのだ。いつだって選んだものを拒否して、あちらが良かったと唇を噛む。馬鹿げている、分かっている。それでもそういう人間としてやっていくしかない。そうやって書いた今月。
また4月がきて、5月になる。こうやって書き続ける。