静電気

また5月がきたよ

 

結局のところ、私は誰のことも愛せないのだと思う。

ある意味で誰のことも好きにならずに生きてきたのかもしれない。ずっと誰かのことを好きであると思って生きてきたけれど、少し間違っていたのかもしれない。多分きっと誰のことも本当には好きになれないのだろうと思う。きっと誰にも夢なんて見れない。

私の好きは生存戦略だった。人生を少しだけマシに生きるための戦略。好きな人間がいる空間は素敵だ、話せたら、いや姿を見れるだけで少し心が浮き立つ。だから好きな人間が居た方が人生は楽しい。そんな馬鹿みたいに単純な感情だ。君はこれを性欲の一形態と呼ぶのだろう。否定は出来ないだろうし、しないでおこう。たとえ事実だとしても不愉快な気持ちはいつだってつきまっているが!

性欲を汚いものではなく、自然なものであって、自己嫌悪の対象ではないのだと再三言っておきながらも、自分のそれを性欲と一括りにされるのはいつだって不愉快で、馬鹿みたいだと思う。誰がいちばん汚いと思っているのか、それはきっと私だった。

 

それはどうだっていい。良いのか分からないが、こういう文章を綴ること自体が馬鹿げている気もする。状態に酔っているようで、気持ちが悪い。加害者はヒロイズムに浸ってはいけないので。

そんなことを思いながらも、移り気を不誠実ではないと思っているような口ぶりには反吐が出そうになる。私は移り気になる前に死んでしまいたい。責められるのは嫌だが、責められても仕方ないが、責めてない顔で責めている人間ほど、嫌悪するものはないな。

とはいえ既にこんな発想が出ている時点で私は駄目なんだろうと思う。結局のところ、私は母と似ているんだろう。あの人と何が違ってないんだろう。こんなにも腹立たしいのは彼女が自分のようだからなんだろうか。

 

楽しいだけで良かったならこんな話はしないで良かったのだ。楽しいままで、一生このまま楽園で暮らして居られたら良かった。歳なんて取りたくない。楽しいままで居られないから、こんな話をしているのだ。

どこまでもすれ違って、うまくいかないと思ってしまう。私の思っていることは全然伝わっていないのだと、この話の度に断絶を、空いた穴をどこかに見つけてしまって苦しくなる。やっぱり私が悪いんだろうか、いつだって私はうまく伝えられない。

 

苦しい、言葉が暴れている。悲しみは自慰だ。不必要な言葉で嬲ったら、満足して頂けるんだろうか。すべてが重たく、厭わしい。

こんな呪詛を書き散らして、何になるんだろう、こんなものを書いてしまった時点で私は負けていると思う。何にだろう、何に負けたんだろう、良く分からない。これ以上何も考えたくない。私がわたしらしく生きられない障害はすべて取り除きたい、そんな自己が存在しているのか分からないけれど。

自分を、周りを、何もかもを投げ捨ててしまいたいよ。