静電気

また5月がきたよ

 

書かない方が安定していると言うし、そうなんだと思う。この言葉は誰に為でもないのだと思うと、ただの吐き出しであり、そう思うと吐き出さないでいられる状態は安定してると思う。安定がとにもかくにも、最上に良いことだなんて言いたくないけれど、やっぱり良いことなんだと思う。

 

最近は足元が本当にぐらぐらしている、安定からは程遠いと思う。何だかんだこれまでの人生安定していたのだと思う。そりゃあ穏やかな気持ちではなかったけれど、自分の立っている地面は固くて、安定しているものだと思っていた。だからこそ、何とかなっていたのだと思う。甘えるところがあったのだと、大人なら言うだろう。きっと私も無自覚的に思っていたのだと思う。

どうしてそんな風に思えたんだろう、私の立っている地面はずっと固いんだって。本当は私の地面はそんなにしっかりしたものじゃなかった。今だって固い地面の下はぐらぐらと揺れているような気がする。中身はスカスカかあるいは柔らかくてぐにゃぐにゃで崩れそうだ。固くて安定した、安全な地面。それは幻想だったのかもしれない、いやそうだったのだけれど、変化したのかもしれない。分からない、でも今はそんなに安定したものではないのだと思う。

 

私の人生ではないから好きにしてほしいと思う反面、私の人生の根幹であるから変わらないでほしいと思ってしまう。でも彼らは彼らなのだ。私の一部ではない、私が彼らの一部ではないように。私たちは勘違いしてしまう、何故なら彼らは私たちが生まれた時から親であるから。彼らも昔は私たちだった、親ではなかった。親は親として生まれるのではない、親になるだけで。私たちは忘れてしまう、彼らにも私たちの人生があったことを。

いつか聞かれるのだろうか、どう思うか、と。私はどう答えるのだろう。最近、近いことを聞かれたが、思ったよりも何も浮かばず、浮かんだ言葉は少し間違っていたように思う。何も聞かれないのかもしれない、突然打ち切られるのかもしれない。分からない。彼らは彼らだから。私は彼らには含まれてない。

 

人生は色々ある、あるけれどなくてもいいのに。せめて後から笑って言うような色々であって欲しい。これは今の私の人生におけるドラマとして、欲していない。本当に自己中心的な意見で申し訳ないが。

 

と書いていた8月のこと。何も現状は変わらない、変わらないことは望ましく、恐ろしい。見えない部分に蠢く、黒いもの。どう足掻いたってそれは消えてくれなくて、それどころか日に日に大きく、澱んでいくのかもしれない。それが襲い掛かってくる日が私は本当に恐ろしい。

考えたくないのだと言っているけれど、考えないことは恐ろしいし、考えても仕方がない。私に出来ることは一体何がある?何もない。出来ることは選択することと急速に自立することだ。考え過ぎなんだろうか、考え過ぎなんて私に出来る訳がない。

すべてが元の通りに戻ってほしい、アブラカタブラ、呪文を唱えて、元通りに!そんな風になってくれれば、どれくらい幸せだろう。魔法使いに私はなりたい。

仲良くない弟とでさえしんみりしてしまう。私にも彼が悲しいとかなしくなるという気持ちがあるのに、少し驚いてしまった。我ながらなんて冷淡な人間なんだろうと笑えて、人間的なところが私にもきちんとあるのだな、などと彼の少し涙混じりの声を聴きながら思ってしまった。こんなにも共通して、こんなにも悲しみを分かち合える存在は彼をおいて、この世界にはいないのだと、今更ながらに思う。

いつだって姉弟仲を説かれる度に、糞喰らえと思っていた、今も多分こんな夜中でなければ唾を吐いているだろう。それくらいには私は酷い人間だ、私が大人になれてないだけだという事は分かっている。どうしてこんなに彼には歩み寄れないんだろう、いつも分からない。もっと優しく出来ないのかと思うし、今更どうしてそんなことが出来るのかという思いと、今更もクソもあるかという思いがぐるぐると周り回って、結局いつも通り、恐ろしく冷ややかな私がいるのだ。まあ、彼にはといったがそんなに人間に歩み寄れるタイプでもないだろうというツッコミは控えて頂きたい。そんなことは私も分かっている、私は陰湿な人間だ。話が大分反れてしまったし、何の話をしているのか分からなくなってきたが、まあ、姉弟仲を説かれる度に頻出するこの世で唯一の姉弟なのだからという部分がそうなのだなと、当たり前すぎて、何を言っているんだろうと思うが、そうなのだなと思った訳で。

当事者には分からない、第三者には理解してもらいたくない、唯一許される共感は彼にしかないのだろう。逆もまた然りで、彼にとって私はそうなのかもしれない、まあ彼はそんなことは考えないかもしれないが。

もう戻らないと分かっている。だって、あんな言葉を、あんな涙を見て、元通りになってくれだなんて。死ぬまで苦しんでくれ、私の人生のためにと言える強さが私にはない。零れた水が盆には戻らないことを私たちは諺から知っている。諺を調べてみたら由来で微笑んでしまった。何も面白くないのにね。

 

いつも通り、本の話でもしましょう。それ以外に話す事が何もない。語る言葉なんて持たない癖に、いつだって話したいことは本の話だけで、でも殆どの人間とは出来ないからいつだって苦しい。別に誰とも話さなくてもいいのに、そんな風にも思ってしまうから、私はきっと話すことを望んでいるのだろうな。人間のことが嫌いだと思うのに、やっぱり好きなんだなと思うと格好つけているだけのようで、紛い物のようで苦しくなる。嘘つきだ。

今日ので今年100冊読んだらしい。今年度の目標は殆ど達成できてないに等しいが、確か今年の目標は100冊だった気がするので、達成できたのは良かった。去年は全然だったはずだから。

冊数には何の意味もないことは分かっているし、そこにこだわっている時点で駄目なのだということも分かっているのだけれど、何かを継続している証拠にはなるのではないか。習慣と継続は祈りだと思う。私にはこれしかないのだ、多分。これならば少なくとも趣味を強いて言えば読書と言っても許されるのではないかと思ってしまうのだ。平均月10冊読書する時間をどうにかして捻出しているという事実は、読書を趣味と呼ぶだけの証拠足りえるのではないかと、思ってしまうのだ。

まあこのまま読んでいけたらいいよなあと思っているのだ。何を犠牲にしているのかをもっと考えるべきなのだと思うのだけれど、仕方がない。だってすきなのだから。こうやって好きであると言えるだけ幸せなのだろう。好きで良いのだろうか、私のこれは。毎回そんなことばかり言っているな。そして、何だか現実から逃れているだけな気がするのだけれど、これは正直なところ、小学生の頃からだろう。なんで貴方の友達は図書室や資料室だったの?思い出してみて。