静電気

また5月がきたよ

 

いつだって好ましいのは薄い人間だ。薄く見えるだけで本当はそうではないのかもしれないけれど、それだって好ましい。それはそれで人間の厚みだ。薄っぺらい人間にはなりたくない癖に、薄い人間に憧れてしまうからそういう厚みがあるのは好ましいことであるな、と今更思ったりもする。何もない身軽さに恋い焦がれると同時に、抱えきれない重みを羨んだりする。無いものねだりで、隣の芝はいつだって青い。私はいつだって隣の芝生を羨んでいる、きっとそういう生き方しか出来ないのだろう。

 

淡白な人間にいつだってなりたくて、苦しい。ワナビー願望を私は本当は嘲笑ったりできる人間ではない、いやそういう願望の人間を馬鹿にしている訳ではない筈だし、何かになりたい人間は等しくそのなりたいになれることを願っているけれど、それは難しいことなのだ。だからこそ人間はそういった願望を持つわけで、願えばなれるならば、そんな願望に人は苦しんだりしないのだ、多分、きっと。

すべてに淡白じゃなくたって良い、興味そのものが淡くなりたい訳ではない。何に対する興味だけを保持していたいかといえばそれは本で、フィクションで。そのくせ、それ以外の興味は総て消えてしまえば良いのに、とも思う。本当に、本気で、痛々しいのは承知で思っている。

総てといったが、実は概ねのところ人間への興味だ。そんなものは無意味で、要らなくて、汚い、そんなものなくたって生きていけるのだ。いや変わり者だと言われるかもしれないけれど、興味の薄い人間は大抵そういうった視線をそうですかと流している、気がする。気がするだけでそれなりに気にしているのだろうか、分からない、私が知っている気がしているそういう人たちは大抵気にしない性質な気がする。これは私の彼らの対する憧れに基づく願いなだけかもしれないが。

存外虚しいことらしいが、私には分からない。隣の芝生だな、またとは思うけれど。

 

私個人の面白味の無さを無理矢理覆い隠そうとする度に、何かが滑っていく。私の面白味の無さを覆い隠す為のベールは私に馴染んで、気持ちが悪い。隠せている訳ではないのに、取り繕ったような気持にさせるそれが気持ち悪い。

すべて諦めてしまいたい。何も望みたくないのに。誰にも何にも、自分にも期待せずに居られたらいいのに。触れられれば触れていて欲しくなる、人間関係なんて今ある分で十分事足りていて、満ち足りていて、何も要らない。もう何も要らない。私の内側にこれ以上触れてくる人間は増やしたくない。交流なんて幻想だ、幻覚だ、妄想だ。すべては上っ面だけで、内側に入り込んできたりはしない。しないのに、入り込んだような気持ちになって、勝手に期待して、勝手に。なんて身勝手なんだろう、身勝手な期待をしたくないからすべてを切り取ってしまいたい。私は極端な人間なんだ、極端だから入力も減らしたいのだ、すべて減らしたい。入り込めば入り込むほど苦しくなる、苦しい。何もないのに、何もないはずなのに、刺さってもない刺が深く刺さって、抜けないんだと一人で叫んでいる。イカれている、本当に。