静電気

また5月がきたよ

 

会社に忘れものをして、恥をかいて、本を買った。帰ってきて、洗濯機を回している。夜に友人と会う予定だったが、色々あって、延期の流れを作って、延期した。このブログを書いたら、出掛けようと思っている。外は晴れていて、空は青い。彼女はこれを青空と呼ばないかもしれないが、私はこれを青空と呼ぶ。

 

本をまたバカみたいに買って、また紙袋が溜まっていく。沢山の本を買うときは紙の手提げを二重にしてくれるので、大変ありがたい。そしてその紙袋を提げていると私の腕というか肘の内側の柔らかい白い皮膚には大抵赤い水玉めいたものが出来る。それくらいに多分、重たい。

本の重みが私を安心させてくれる、所有物が発生させる重みを私は愛している、だからきっと私の鞄はいつだって重いのだ。耳を塞ぐイヤホンと同じくらい、重みというのは私に安心感を与えてくれる。

外出時に耳を塞ぐイヤホンは私の膜だ、外の世界から私を守る薄い膜。その膜があってさえストレスを感じる人間は多いと思うけれど、私はその膜程度で何とかなる。ひとりでいる気持ちになれる、なんてお手軽なんだろう。勿論、画面を覗けば、そこにはたくさんの人が蠢いていて、それと容易に私は繋がれる訳で、ひとりになんて本当にはなっていないし、外に出ている時点で私のまわりには人間たちがうようよしているので、ひとりになんて本当にはなれない。なれないけれど、耳を塞いでいる間は私はひとりなのだ。

 

撮るものと撮られるものという関係性がずっと好きだ。きっと中学生の頃くらいから私は好きなのだと思う。だからそういう写真集を持っている、写真集なんて基本的には買わないのに。特にその、るもの/られるものが恋人や夫婦関係だと良い。

多分、見せてもらえない表情が見れるからだろう。あの、特別な表情の共有。それを世間に発信してしまうこと。すべてが好きだ。

書くものと書かれるものの関係も好きだが、撮るということに築かれた関係は更に好きだ。何となく前者よりも残酷な気がするからだ。固定されてしまう、変化しないまま残されてしまう気がするのだ。

 

そんな文章を書いて2日ほど放置していた。発酵のことを思う。最近読んだエッセイにも出てきた、発酵。

今日もまた本を買ってしまった。何故なら増税前だから。無理矢理理由を作っては、無駄遣いを許していることは大変許しがたいことだなとは思うが、きっと私はそうやって生きていくんだろう。浅ましい。

 

無駄なことを人とたくさん話してしまう。この舌が、この頭が、わたくしの総てが憎い。憎くて仕方がない。それはそれで味気なく、寂しいことだとあなたは言うのだろうけれど、私はやっぱり隔絶したくて堪らなくなってしまう。鋼の扱いを受けたい、氷の扱いを受けたい。でもきっとそれでは上手くやっていけないだろう。今だってうまくやっていられてないのに。社会的な生き物であるのだから、完全に切り離されてやっていける訳がないのだ。分かっているのだけれど、憧れてしまうのだから仕方ない。

本当の意味で本当に人が嫌いになりたかった。まるで冗談を言ってるみたいだ、いつだって疎ましくて、嫌いなつもりなのに、こんなだから。私の嫌悪は紛い物だ、紛い物だと他人から言われるのは何が分かると叫び出したくて堪らなくなるのに、私は私を偽物だと指摘する。好きだから嫌いなのだろうか、好きなのに嫌いなんだろうか、好きだから上手くいかなくて嫌いたいのか。酔ってるだけなのだろうか、自己に。いつだって、汚くて、おぞましい精神性だ。

だからせめて水になりたい、蛇になりたい。冷たくなりたい、淡くなりたい、なりたいのに。離れたいのに、ここに居たくないのに。いつだって上手くいかない。上手くいかないことを疎むなら、前を向きたいと願えばいいのに私は後ろを向きたいと叫んでいる。手に持っているものを増やすのでなくて、減らしたいと私は喚いている。

必要以上に驚いて、笑って、怒って、自虐して。時々笑っている、頭の中で。誰かが、多分、私が。どうしてそんな風にしているの?そんな風にして何になるのと。心底馬鹿にしたような笑いを含んだ声で。何だって過剰にしてしまう、喜んでくれますか、私の過剰を。私の過剰を愛してくださいますか。