静電気

また5月がきたよ

 

書きかけの記事をすべて何も読まずに捨てる。こねくり回して、公開するつもりだったのだけれど、止めてしまった。どうしようもない、過去の言葉たち、私のいつだって変わらない気持ちたち。成長のない、ゴミたち。

要らないものは捨てた方が良い。そうでしょう、だって要らないのだもの。

断捨離と呼ぶしかない行為をぼんやりと続けている。意味のあったデータたち、執着という言葉を思う。本当に意味があったんだろうか、フォルダを眺めて思う。どこに意味があったんだろう、どこに意味を見出していたんだろう、思い出せるけれど、本当に意味があったのか、本当はなかったんだと思いながら、消していく。

要らないものが多過ぎる、多過ぎるんだ、全部が過剰だ、汝過剰を愛せよ。

 

本を読まない日も、音楽を聴かない日もない。そういう人間がどれくらい多いのかは知らない。一人ならば、どんな短い時間でも、例えサビまでしか聴けなくても、数ページだけだと分かっていてもそれらに触れる、触れてしまう、触れずには居られない。だって、そういうように生きている、そういうように生きるように要請したのかもしれない、それでも今の私は少なくとも、そうやって生きている。これは習慣で祈りというものなのだろうか。

こうやっているのに、両方胸を張って好きだと言えない自分がいて、笑ってしまう。いつだって自分の好意には自信が持てない、持たなくてもいいのかもしれないけれど、いつだって卑屈だ。一生卑屈なまま生きていくんだろうか。これが私の悪い習慣で、駄目な祈りなのかもしれない。

 

私の精神のチューニングが狂ってしまった。誰か正しく、整えてほしい。私にしか出来ないことなのだけど。元々狂っているだろうという意見もあるだろう。だってこのブログはいつだって、何度だってそんな話ばかり繰り返している、同じ言葉をひたすら書き続ける呪いのノートのように。

とはいえ、それは狂っているという正常さであって、今は狂っているという異常さがあるんだよ。不安定という安定、そんな言葉はないのだけれど、そう言った状態。とにかく、私の正しく狂ったチューニングに戻りたい、戻してほしい。あるいは、新しく整えたい。

映画をみて、本を読んで、食べてのんで、こんな馬鹿げた文を書きなぐっていたら、私はわたしに戻れるだろうか。多分でしかないけれど、自分の習慣を考えて、軌道に乗せようと足掻いている。自分の生き方、聴いて読んで生きること、それが習慣なのだからそのラインに戻すのだ。戻りたいんだろうか、これを機に造り直してしまえば良いんじゃないだろうか。造り直すことは上手くいかないこと、誰よりも分かっている筈なのにそんなことを考えてしまう。

同じところを馬鹿みたいに回っている、自分のしっぽを追い続けて、そのうちしっぽを呑んで、ウロボロスになってしまう。終わらない、終えられない、地獄だ。こんな恥ずかしい、自意識を開陳し続けて一体何になるんだろう、いつだって、何になるのか悩んでいる。繰り返し思い出すのは、書かないのかという残酷な善良さ。読む行為を愛している人間が須らく書ける訳ではない、書きたい訳ではない。書きたい訳ではないのに、残酷だと思っているんだ?笑ってしまうな!

早く安定したい、安心したい。苦しいのはごめんだ、誰も救えないのに、いつだって救って欲しいと思っている。でも同じ位に強く思っている、誰にも私は救えないんだと。誰にも私は救えなくて、救えるのはわたしだけで、だから早く自分だけで完結してしまいたい。

他者の欠落を愛したい、私は欠陥を抱えたい。自己完結したい、私の内側に入る人間をすべて押し出してしまいたいのに。