静電気

また5月がきたよ

 

書くということが私の救いになるのでしょうか、そんなことが私の身にも起こるのでしょうか。あの一件からずっと書いてばかりいる気がします。スマートフォンのメモ帳にはことばが積み重なっていく、それをこのブログに落とし込んでいく、この作業が私の救いになるのでしょうか。それはきっと、これから先に分かることなのでしょう、何だって気が付くのは後になってからでしかないからです。

未来の私、どう思いますか、あなたの救いにこれはなったのでしょうか。未来の私、どう考えていますか、あなたはこれまでのわたしの事を。未来の私、どうですか、あなたは答えを見つけられましたか。

とはいえ、私は未来の私の答えを知ることは出来る訳もないので、都合の良いように、絶望しない程度の都合の良い未来を、都合の良い答えを私に吹聴しましょう、今はそうやって生きてゆきましょう。

 

私は傷口、膿んだ傷口、目が覚める前にそんなことと神経についての記述を思い出していた気がする。11月になってしまった、冬が来る。毎月のように私はわたしを定めて、粛々と生きようと思っているのに上手くいかない。勿論、今月もそのように生きようと思っている、生きたいと思っている。淡々と穏やかな精神を希求している。ただ思うのだ、穏やかで冷たくない人間になりたいけれど、壁で自分を守って、凍りつかせてしまいたいとも。冷たく、閉ざされた冬のなかで生きたい。また自己が引き裂かれて、訳が分からない。指の間から何かが零れ落ちて、取り返しがつかないような心地になっている。

 

信じられない感性かもしれないが、ストーリーが面白いとか良いとかそこまで思えなかったとしても、どのように表現されているかだけで何とかなってしまう人間がいる、それが私だ。本当に苦痛なストーリーと今だかつでないくらいに好ましいと思う文章の組み合わせには今のところ出会ったことがないから、本当に何とかなるかは分からない。本当に苦痛なストーリーというのはどういうものなのだろうか、まずこの時点で思い付かない、ここまでくると思考実験でしかない。とにかく、ストーリーよりも文章がすべてを乗り越えてくる事が私においてはままあるのだ。他の人にもあるのではないかと思っているけれど、そういう話は大抵馬鹿にされるので真面目に話すべきでないだろうし、黙っておく方が良い。私のいう文章が好きだという感想は馬鹿に見えるだろうなという思いはある、だって客観的に考えて根拠が全く示されていないし、馬鹿っぽいもんね。

 

左手の薬指、左腕の肘から上の一部がビリビリと痺れる、触るとなんとも気持ちの悪い痺れ、時々起こるこれは一体何なのだろう。精神的なものなのか肉体的な問題なのか。その痺れが現れる度に検索しては、首を傾げてしまう。

いちばん安らぐ人間たちといても、あの漫画のあの人のように、ひとりになりたいと思ってしまった、不具合、不具合が生じている、バグを早く取り除かなければと思うのに、ひとりで煙草を吸ったりしてしまう。出来た穴は同じものでしか埋められない、どう足掻いても同じものは用意出来ないから、別のもので埋めるしかない。

 

本を読むひとのブログとTwitterを眺めている、死ぬまでに読まなければと思うものが増えていく。本は日用品で気分に合わせて読むという気楽な娯楽で良いと思うのだけれど、やっぱり読まなければならないわよこういうのもといった己への強制めいた何かもある。格好つけているようで恥ずかしくもあるが、格好つけたって良いのだ、多分。それにだってその格好付けも無意味ではない、多分、読み終わればだけど。読みたいなって言っているだけでは無駄である。いつもそれの繰り返しで、げんなりするのだけれど、まあ仕方ないことではあるよな。

 

陽が落ちるのが早い、秋を越えて冬になろうとしているのだから当たり前なのだけど。この仕事をしていると1年が早いのだと上司が言った、高卒入社の手の荒れた人が、紙をずっと扱ってきたのだと思わせる手をした上司が言っていた。
休みでなければ夕方のない生活だ、陽が高い頃に家を出て、夜が世界を覆ってから家に戻る。だから夕方は欠ける、朝起きるのが遅いから朝も欠ける、私の時間は昼と夜だけになる。別にその事を辛いと思ったことはない、朝は苦手だから、とはいえ朝が苦手なのではなく、寝起きが良くないだけな気もする。夕暮れは好きだ、大抵の人間は夕暮れを好んでいる気がする、写真とか撮ってる人、良く見るし。切なくなる空の色、最も美しい空は夕暮れだと思う、とはいえ青くて吃驚する位青い空も美しいと思う、最もという言葉の意味を私は分かっているのだろうか、まあこちらは夕暮れと違って、あまり見ることが出来ないけれど、そういう珍しさも加算されているのかもしれない。空の色は早朝も美しいだろうが、個人的には視覚よりも聴覚のイメージが強い、新聞配達の音、鳥の声。あとは切なさよりも罪悪感がある、眠れなかったことへの。私の早朝は早起きではなく、遅寝と結び付いている。

 

読むことで救われる人よりも書くことで救われる人の方が多分好きなのだろう、好きな人たちは大抵が書いて救われている気がするのだ。とはいえ読むことでも書くことでも救われるような人が好きなだけな気がする、そういう人は結構何かを書いているように思われる。気がするというのは書き言葉の癖だ、普段もそうだろうか、分からない。でも思考の癖としてあるから、吐き出す言葉もそうかもしれない。勘違いを、思い込みを繰り返して、騙し誤魔化し、日々を積み重ねている。私もある意味で書くことで救われているのかもしれない、こうやって書かずには居られないということはそういう事なのかもしれないな。私にも書かずにはいられないと思う事があるのは不思議な事だ、とはいえこれは表現したいことというよりも吐き出さずにはいられない、という欲求から発生した文章であって、それは悪いものを出す、謂わば膿を出すという行為に近く、神聖さというものはここには宿らない。膿にも神が宿るだろうか、まあ創作行為を排泄に例える人間の書くものにも神は宿るし、誰かが宿ると思えば膿にも宿るのだろう、とはいえそれを思うのは私ではなく、他の誰かがやることであると思われる。

 

自分の扱い方が分からない、二十の半ばで分からないというのはどういう事なのよと思ったり、まだ二十の半ばなのだから仕方ないでしょうと思ったりする。私の周りの人間は歳の割りに穏やかであったり、扱い方がしっかりしている人間が多くいるような気がして、自分の駄目さにうんざりすることがある。私のすきな人間はいっていた、精神が低いところで安定している、加齢からくる諦念が人間を穏やかに見せていることはあると、私も低いところで安定したいし、諦念による穏やかさを得たい。

穏やかな人間に憧れるのは周りに穏やかな人間が居なかったからだろうか、強いて言えば父方の祖母は穏やかな方であるように思われる、思われるだけで気のせいかもしれない、人間生きていれば色々あるだろうし、腹のなかは見えない。彼女は遠い土地から嫁入りして、違ったかもしれないけれど大学を出ているとか、出ていないとかで、まあ教育をその時の女性にしては受けているはずの人であったはずで、こんな田舎の長男の家に嫁いできたのだと思うと、勝手なことを考えてしまったりもする。

そう考えると母方の祖父も穏やかな方であるような気がする、でも穏やかというのは違っているようなと言った感じであり、彼もまた雑な言い方をすれば大変な生き方をしているので、穏やかなだけではやっていけないだろうなとも思う。まあ人の良いひとであるから、穏やかな方であるのかもしれない、それで祖母は大変であったとは思う、とはいえ祖母はどちらかというと苛烈なタイプであり、祖父もまた大変であっただろう、いや彼らは今も現役で大変そうなのだが。

どうも私の一族にはそう考えると穏やかな人間が欠けているらしいと思う。父や母のことを思う、彼らに穏やかさがあれば、私たちは傷つかずにいられただろうか、彼らにとって私たち子どもというのはどういったものなのだろうかなどと思わずに済んだのだろうか。まあ多分関係ないのだろうとは思う、それに考えても仕方のないね。

ここまで書いて父方の叔父は穏やかだなと思うが、彼は彼で少し変なところがあり、いやまあ人間変でない人はいないという話をし出すと仕方ないのであるが、まあこの変さというのはある種の信仰めいた話であって。何かを信じるということは信仰だよな、まあ信じるものは救われるので良いだろう。頭の良い人は少し変で概ね穏やかなものかもしれないな、と職場の上司の事も思ったりするのであったが、インターネット上の人間は穏やかには見えず、腹の中よと思うのであった。

話があっちにいってしまったが、もう少し年をとれば落ち着くだろうか、加齢による諦念がわたしを救ってくれるだろうか。考えるのを辞めたい訳ではないけれど、苦しみから逃れたい気持ちはやっぱりあるのだよな、もっと違うことに脳のリソースを割きたいという気持ちはある。
とはいえ、表面的な穏やかさだけでいいのではないかなとは思う。どうせここまできたら真性の穏やかさなど手に入る筈がないだろう、生来の穏やかさのみが穏やかであるということではないし、30頃に穏やかさを会得してその後はずっと穏やかならばもうそれは穏やかであると呼んで良いようにも思われるのだけども。穏やかな人間になりたいけれど、多分穏やかな人間の思考回路は私には備わってないように思われる、回路をつくれば良いのだけど、そんな簡単にそう言ったことが出来るならば私はもっと幸せだっただろうよ。最近は妥協案みたいな、理想に近づきつつ、現実をそんなに捻じ曲げない方法を考えている気がする、これもまた諦念なのだろうか、とはいえ明日にはとにかく理想の実現のために邁進せよ、自己を破壊せよと叫んでいる可能性もある。
自分の狂気なんてあるのかは分からないし、自己愛の膨らみを感じてげんなりする表現ではあるのだけれど、自分の狂気を飼い慣らしている人間の方が好みだよなとは思う。飼い慣らした先に自分の機嫌を自分でとれるような人間になれるような気がしている、いつも手綱の握り方を考えている、どうやって握ったら良いのか、人間たちはどうやっているんだろう。考えなくても、ちゃんと扱えるのだろうか、それとも何もないのに何とかしていられるのだろうか。分からない、こんな事を考える方が駄目なのかもしれない。不機嫌だと言われると不機嫌になってしまうけれど、多分ご機嫌だと思われるより不機嫌だと思われていたいし、でも不機嫌なのは嫌だ。何だかんだ私はずっと不機嫌で愛想の良くない人間でありたいんだろうな、それってどんな欲求なんだろう、他者から求められるものが高くならないような予防線なのだろうか。なんて面倒くさい自己分裂、自己たちの鬼ごっこ

 

火が怖い子供だった。寝ている間にすべてが燃えてしまうのではないかと眠るのが怖かった、火の元を確認しないと眠れなかった。今でも家の鍵をかけた後、使ってもない火がついてないか気になって、台所に確認しに行くことがある。そんな人間がライターを扱っていると思うと少しだけ笑える、とはいえ煙草の火も消えているか不安になることが良くある。
怖いものが多い子供だった気がする、死ぬのも怖かった、それは火を恐れるよりも小さい頃だったはずだ、3歳くらいだろうか。何故そんな風になっていたのかは思い出せないけれど、恐れていたことだけは覚えている。死後の世界に持っていきたいものをお気に入りのプラスチックのケースに詰めていた、死ぬことを意識している癖に何かを、物体をあちらに持っていけると思っているのが可愛らしい。あのプラスチックのケースにはキティーちゃんの顔がついていたはずだ、でもキャリーケースだろうか、分からなくなってしまった、私は前者だと思っておる、何をいれていたかは覚えてない。とはいえ、死んだことがないから、実は持っていけるのかもしれない、本当のことなんて分からないね。
そういえば戦争も怖かった、小学生の冬だった。ニュースで流れるそれらが恐ろしくて、炬燵に潜り込んで、耳を塞いでいた。それらが過ぎ去ったか家族に確認して、そろそろと炬燵から這い出していた、炬燵はさながら私の防空壕だった。火が怖かったのも同じ頃だったろうか、覚えていない。すべてを消し去ってしまうものが怖かったのかもしれない、死ぬことを本能的に恐れていたのかもしれない、当たり前のことだろうけどそこまで意識しなくても良かっただろうに。
成長すれば、希死念慮めいた何かを抱える羽目になる。恐れていたそれを望むようになる。すべてを解決する冴えたやり方に見えるのだ、厭わしいものがすべて消えてくれたら良いのにと願うけれどそんなことは有り得ないのだから、ならば私が消えた方がずっと楽だ、というのが最初だったように思う。では今はもう思わないと言ったら嘘になるし、死ねたら良いのにとは思うのだけれど、それでも前とは異なった気持ちであるということだけは言える。穏やかな望み、あの切望、何が出来るという訳ではないけど、出来るという訳ではなかったからこそのあの望みとは今は隔たっているように思う。死にたくて仕方ないのに、死ぬことは恐ろしかったのだと思う、どうしたら良いのか分からなかった、やり方なら知らない訳でもないのに。今もそうだ、何も痛まないなら、何も損じないのであれば、何も奪わないのならば、穏やかに終わらせてくれるのならば。そんなことは有り得ないから、私は生きることになる、明日も。
今も何だかんだ怖いものが多い、人間が怖いと絶叫して見せるが、パフォーマンスめいて見えるだろうし、止めた方が良いのは分かっている、分かっているがやめられない、生きづらそうと言われたら、笑って誤魔化そうと思っている、そんなことを言っておいて。パフォーマンスではなく生きづらい方だと思っているのだけれど、でも生きづらいって本当は思いたくないのだけれどな、面倒くさい。でも本当は皆だって生きづらいでしょう、他人のことなんて分からないし、あなたのように生きられたら人生もっと良かっただろうにとか、どうしようもない時は私はわたしがいちばん生きづらい生き物のように思えてしまうのだけれど。

とはいえ、人生を怖がらずにどうやってまともに生きれるだろうか、怖がらずに生きている人間の方が、私はずっと信じられない、そういう人間が怖い、これもまた馬鹿げた安っぽい狂気なんだろうか。

 

病気なのだと言うとそんなに真顔で言わないでほしいと母に言われたのだけれど、そうとしか言いようがない。表情がなかったのは寝起きでぼんやりしていた為であって、別に演出ではない、とはいえ私はそう思っている。だってこんなにやめられないのだから。浪費も一種の病気だと思っている、それなのに本について調べてしまう。また馬鹿みたいに買ってしまう、怖いのに本のことを調べている間は安らかな気分になれる。

 

気がついたら、床で軽く眠っていた。休みの前日は特にそうな気がする、緩んでしまうのか床で眠ってしまいがちだ。起きなければと思うのに、あんまり足が冷たくて、座布団とカーペットの隙間、熱がこもったそこに足を入れたまま、動けなくなる。ぼわぼわとした頭、どろどろとなにかが溶け落ちていきそうな気分になる。勿論、何も溶け落ちず、私は寒さに震えている。

 

あなたのようになりたいという時、顔や見た目で思うことはあまりないように思う、なりたい有名人よりもなりたい顔も知らないインターネットの人間が多い、あるいは創作物のなかの人間。精神性に憧れる。

 

読んでいる本が読んだ本と遠くで繋がっている錯覚に陥る時、私はこれまで本を読んできたんだなと思える。この繋がっているという錯覚は私にしかないもの、個人的な錯覚だ。この個人的な過去の体験に結び付いていることは誰にも否定されることじゃないよな、という気持ちになれる。この繋がっているという感覚はテーマがとかではないので、正誤判断を他人から下されるものではない。解剖のシーンを読んで、他の本を思い出す、みたいな緩く淡い繋がりだったりするから。本を読まなくても、買わなくても、人は死なない、生きていける。でも生きていけない生き物はいる、いると思っている。私は買わなければ生きていけないと思っている、少なくとも今は。ここで読まなければと言えないところが私のわたしであるところであるね。

 

大して求められてもないのに過去をぶちまけて、解体してしまった。恥ずかしい自分語りだ、あまり人が見てないことを祈る、午前4時のうすあまい告白。とはいえ、こうしていると本当に私にとって過去になったのだなと思う。話をすると目が潤み、声が震えたことを思う、今では何もない、ないということはもう整理のついたことなのだと思わせる。すべてのことは後で評価される、終わった後にしか分からない、その時には判断がつかない、つかないけれどそれでも我々は決断しなくてはいけない、後で大きな代償を支払う羽目になろうとも。すべてのことが決断の先に善くあることが定まっていたら良いのに、決断に何の迷いもなくなるだろう、とはいえ定まったものを選ぶことは選んでいないのではないだろうか、決断って何なのだろうな。でも我々の生がこの先、より善きものになることが分かっていたら、この先も生きていけるのにな。まあ、そんなことを言っていても、このまま人生は大抵善くはならないし、続くのである。