静電気

また5月がきたよ

尖の

 

何かしら毎日メモ帳に何とも言えない言葉たちは蓄積している、一応の適当な推敲を経て、ここに投稿することになる、この時の適当というのは雑なという意味である。以下のものは11月の私の言葉たちになる、ただ推敲時にまあまあ加筆されるので、すべてが過去の言葉という訳ではない、とはいえ、公開した時点ですべての言葉は過去になるのだが。無意味な、でも私に必要な馬鹿げた言葉たち。

 

必要最低限のものはリュックひとつに収まる、旅行鞄は生活するのに何が必要か、残酷なまでにはっきりわかるという言葉がぐるぐると頭をまわり続ける。
果たして私はどうだろうか、考えるまでもない。もちろん、答えは否だ、収まるわけがない。私の荷物は常に重たい、それは私に安心感を与えてくれるが、やはり荷物なんてものは軽い方が良いに決まっている、分かっているのだそんなことは。とはいえ、少ない荷物はかえって不安になるというように語る適当に開いた本にあった人間の言葉にほっとしたりもする、いつも通り忙しいな。
ミニマルさに、身軽さにはいつだって憧れている、私のなかで軽やかさは穏やかさと何故か繋がっている。重たいものは陰湿さと繋がってしまう、どうしてだろうか、分からない。ミニマルさは思考停止に繋がるといったような言葉もどこかで見た気もするが、それはそれで穏やかさになる気がする、思考停止はしたくないと思っているけれど、思考は私たちを幸せにする訳ではない、更なる地獄を見せてくれる可能性もある、でも停止しているという状態にいるよりはずっとマシだろうなという気持ちにもなる、明日にはどう考えているのか知らないけれど。
とにかく人間最後に持っていけるものはそうない、ものだけではなく、人間関係もそうだろう、自分の身辺整理を落ち着いたらしようという人間の言葉にああ、そうだなと思う、別にその人も、私もすぐに死んでしまうわけではないけれど。

 

上品に中指をたてて生きる方法を、穏やかに苛烈に生きる術を、きっと求めている、この分断を愛したいのに、どうしてこんなに難しいんだろう。こう見えて、完璧主義なんだろうか、私に完璧さなんてどこにもない、どこもかしこも欠けているか過剰かだ、ある意味完璧かもしれない、不完全であるという意味での完璧さ、何を言っているのか分からないけれど。愛想よくしようとせず、輪を広げようとせず、大事なものだけをひたすらに愛していられたら、穏やかに生きられるだろうか。もうすべてに疲れてしまう、何も考えずに居たい、要らないものをすべて捨ててしまいたい、要らないものの判断さえ出来ずにいるのに。
私がわたしのまま、自然にそのままに生きることを認めたい。鋳型に悩む日々は精神を緩やかにすり減らす、どうせ叶いもしない願望には疲れてしまう。分かっている、鋳型を定めたところでどうしたってはみ出してしまう事を、そしてはみ出していることを呪う事も、私はわたしのことが分からないけれど、それくらいならばわかる。それなのにどうしても鋳型を望む、切望している、更に自分を嫌悪することになることが分かっていたとしても。


また12月が来る、何もできなかった11月を置いていく、置いていけるのだろうか、掴まれた足首、重たい頭陀袋のような11月を引き摺って歩くことになるんだろうか。先に進んでも何もない、本当に先に進んでいるのかもわからない、ただ同じところを回り続けているだけなのかもしれない。同じ事を繰り返す、繰り返して、繰り返して、どこにいけるんだろう、繰り返しの先にどこかにいけるだろうか、こんなにどこかにいきたいのにずっと同じ景色だ。

 

文章でさえ、いや元々私の文章は支離滅裂だという強い自負があるのだけれど、文章も酷く感情的になってしまう、なけなしの私の理性はどこへいったんだろう、あなたが見つけてくれた理性は。最近の私の道標のひとつはあなたがくれた言葉だ、ブログでは理性的だといってくれたことを、静かな文章だといってくれたことを。そして、複雑怪奇さを魅力だといってくれたことを見返す。見返すことで私は呼吸ができる、言葉には確かに力があるよ、こんなに呼吸ができるようになるのに、どうしてこうなんだろうな。

 

メモ代わりのアカウントを見返すと、今と全く同じようなことを言っていて、笑ってしまう。この笑いは何の笑いだろうか、冷笑だろうか、苦笑だろうか、何の笑いでも良いのだけどあまりにも同じところで回っていて、笑えてしまう。本当にお馬鹿な犬みたいだ、あんまりかわいくて涙が出そうね。

 

ひとをわたしの内側に入れないということを考える、こういうことだなと紙に触れる、彼女になりたい、残酷なのだろうか、馬鹿みたいだろうか、こんなことを願うのは。また無謀にも彼女たちに憧れてしまう、夢見がちだと笑うしかない。

穏やかであることは過不足がないこと、静かで落ち着いた無彩色であること。そんな風に私もなれるだろうか、こんなにも過剰と欠損を抱えて、それらを愛したいとも思うのに、やっぱり過不足のなさを求めてしまう。バランスの取れた、本当の完璧さ。

なかが複雑ならそとは単純な方が良い、多くのものを無謀にも、傲慢にも、コントロールしたいと願う。生活を整えて、見せかけの精神も整えたい、私が出来るかもしれないと勘違いできる範囲はそこまでだ。自力では組み立てられない生活、見せかけの精神、上っ面のものたち、それでさえもうまくゆかないことばかりだ、疎ましい。バランスをとるのが下手くそだ、そんなことはとうの昔に知っていた筈なのだけど。

快適じゃないこと、不穏であること、無彩色で落ち着いていること、分かり合えないと感じること。求めていたこととは真逆のことを今はどこかで求めている気がする。全部が引き裂かれていく、どこへいこうというんだろう、それはここではないどこかで、でもそんなところへいけるとも本当は思えない。

 

普段は絶対に買わない、食べないヨーグルトなどを買ってしまう、どうしてしまったんだろう。甘いものを食べるよりは良いかと思ったのだけど、何故、どうして。安定性を欠いている、ある意味では普段通りだけれど、普段生じない欲求には驚いてしまう、自分ことなのに。いや、自分のことだからこそ驚いてしまうのか。

 

不安定さを女性らしさと言い換える善良さに目眩がしてしまう、それが本当に善良さなのか分からないけれど、善良だと思ってしまった。不健康かもしれない、本当は。感動しきったような声を出してしまう、素敵ですねと、羨ましいと。そうだろうか、本当に、そんな風に言われたら、私はどう感じるのだろうか。きっと安心する、たぶん私は安心するのだろう、現に私はそういう甘やかしを受けていると思っている。あまりこういう物言いは好きではないけれど、私の精神のある種の不健康さを受け止めてくれているから、一緒だと思う。甘やかされることは幸福で、恥ずかしくて、恐ろしいことだな、もっと甘えずに生きたいのに、どうしたってうまくいかない。安心してしまうことは恥ずかしいことだ、恐ろしいことだよ。

 

もしあなたがわたしのことを理解したいと一瞬でも思ってしまったのなら、彼女の作品を読んでみて、と言えたら良い。別に彼女の作品にはわたしのような人は出てこないし、わたしのことだと思ったこともないし、まあそれはどの作品に対しても思ったことがないので、いちばん近しいであろう見知った感情が書かれているという表現に置き換えた方が本心に近いけれど、だとしても置き換えたところで、当てはまることでもない。でも、それでも私は彼女の作品を読んでみてと言いたい、わたしではないけれど私が求めるわたしに近いなにかがそこにはあるから。
彼女の作品では夫婦関係やそれに近い関係の男女の話が特に好きだ、その方が孤独さを感じられるから。結局どこまでいっても、たとえどんなに愛せたとしても、ふたりでいてもひとりなのだと思うから、忘れてしまう、私たち人間はどんなに一緒にいたとしても、ひとりとひとりでしかない。

 

がーっと喋ったり、泣いたり殴ったりしないことをつめたいタイプだと称すならば、私はどこまでもつめたくなりたいと願う。

 

ぼんやりした頭で台所の床に体育座りをしている、眠いのに寝たくない、明日も仕事なのにこんなのは馬鹿げている。帰ってきてから、本ばかり読んでいる気がする、悲しくなる、読んだ本を、読んだ彼女の本を読み返している。再読をすると心が和らぐのは、精神的に不安定な時だ、再読欲求は普段は殆どないから。一度読んだ本ははじめて読む本よりは安全だ、精神にとって。

 

眠って、眠って、眠る。眠りがすべてを押し流して、眠っている間は真空だ。

 

音楽を聴いたあとの広告があんまり不愉快だから、不愉快だわと思って、そう思ったことに笑ってしまう。不愉快ですねと書かれた文面を思い出す、率直さが明るくて、恐ろしいけど親しみが持ててしまう。一緒に居たいとは思わないけれど。

 

車中からみえた大学構内の暴力的なまでの黄色、銀杏のあの黄色に打ちのめされてしまう。あの黄色の暴力的な色と香り、人間の足取りの無神経さと過剰な自意識を疎んでいた日々が雪崩を起こして、頭のうちを白く塗りあげる。戻りたいと思う気持ちを隠しておくことは出来ない。

 

気を許すことは恐ろしい、向こう見ずなことだと思う。私はどちらかというと簡単に気を許す方だと思っているのだけれど。それでもそう思う、だからこそそう思うのかもしれない、気を許さないでいられたらいいのに。

 

小さい鞄はデート用云々という言葉を不意に思い出す、依存した外出という言葉も。冗談じゃない、そいつが突然崖に突き落とすようなことをしたらどうするんだろう、身を守るのは自分だけなのに、そんな真似は到底出来ないと思ったが、甘ったれた私は大抵が依存的な外出であることを思う。私の鞄は大抵が大きく、重たく、邪魔っ気である。重みは安心感だ、人が重いものは持ちたくないというのを聞くたびに憧れと恐れを感じる、軽やかであることへの憧憬と畏怖が私にのしかかってくる。

 

小説と音楽とカフェイン、ニコチン、それだけで大丈夫、トベると思う、トベるなんて下品だけど思うのだけれど、そうだから仕方がない、これさえあればと労働前は思う、でも終わったあとはご存じの通りだ。あらゆるものを欲している、貪欲で強欲な浅ましい本性、下品な品性。無欲な人間になりたい、欲がないのは美しい、軽やかになりたい、こんなに重たくては生きてゆけないと思う。

 

常に不機嫌に生きていけば、今日は機嫌悪いのかなど言われずに済むのだろうか、いつもテンションが低いところにいれば、予防線になるよな、と思ってしまっているところもある。でも穏やかな人間は常時フラットで、私のフラットは不機嫌なのだ、というのはちょっと言葉遊びが過ぎるよなと思う。本末転倒な感じがする、何というか上手く言えない。ここまできたら一度考えるのを辞めてしまっても良いのではないかと思うが、やっぱり自分のことが嫌いな癖に好きなのだろうな、何とかしたくて、自分を好きになりたくて、もがくしかないと思ってしまう。前よりは、前ってそれはいつくらい前なんだという位の前よりは、前進してるような気がするのだ、中学生の頃よりは、一過性のものだと言われたあの頃よりは。

 

ことばはすべてを伝えきれないから我々は永遠に完全な理解を得ることはない、世界はかならず私やあなたを介して知覚されるので同じように触れることは出来ない、それでも我々は分かり合おうと、言葉を尽くして、手を伸ばすしかないのだと思う。

思うのに、どこかできっと、どうしようもなく我々は分かり合うことなんて出来ないのだから言葉を尽くしたって、と思う。分かり合うことなんて出来ないのだから、我々に唯一残されたことは言葉を尽くすことだ、と思うべきなんだろうか。