静電気

また5月がきたよ

日曜日に、

 

今日まで書き溜めていた言葉たち、その2です、こうやって吐き出して、何になるのか分からないけれど、書き続けている、続けていないとどうにかなってしまいそうだから、たとえ無意味だと思っていたとしても。

 

どうせ気なんてすぐに変わってしまうのだけど、書き記しておこう。
不機嫌さを厭わずに、愛想悪いまま生きていけば良い、そのままで良いじゃないか、ただ他人を攻撃しないし、極力他人のことで不機嫌になるべきではない。不機嫌であるだけで誰かが不利益を被っているかもしれないが、他人に不利益を生じさせない範囲で私は自分勝手に不機嫌になれば良い、ご機嫌であることが大事だなんて誰が決めたんだろう、私が決めていた、その方が生きやすそうに見えたからだ。とはいえ、不機嫌さで他人に迷惑はかけないようにしたい、いやもう既にかけているだろうけど。
どうせ自分以上にはなれない、自分以上になりたいけど、善き人生になるようなこの無意味な呪いをやめたくないけれど、すり減っていくことはやめたい。私はわたしをすり減らすことができる、きっと誰より上手にそれが出来る。私には欠けた穏やかさを求めて、穏やかさから離れていく。私が求める意味での穏やかさはきっと身に付かない、今のところは、だとするならばとりあえず目先の穏やかさを得よう、心の穏やかさを。無い物ねだりをやめよう、いつだって隣の芝生は青い、どれだけ他人の芝生の青さをここで羨んできただろう、根底に他者への羨望が、妬みが横たわっているけれど、まあ私の芝生は仮想的なもので、一個人を意図したものではないから、妬みはあまりない気がする、あるだろうか、妬み嫉みは汚いから、嫌だな。そして、淡白さは何とかならないだろうか、無理かな。

歳はとりたくないが、勝手にとってしまう、それなのに大人には簡単にはなれず、人生は難しい。子供のまま、大人になりたいが、それもまた難しい。子供のままの大人は良いと思う、子供っぽいということではない、頭の柔らかさと視力の問題だ、世界を見る視力。歳はとりたくないけれど、やはり加齢による穏やかさというものは存在しているようで、それは欲しい。穏やかになれないけれど、まあ加齢によるものは何とか得られないだろうか、無理ですかね、まあ加齢によるものについては期待するしかないので、期待するに留めておこう。

私はわたしの不機嫌さを愛するしかない、生きづらくも息はしやすいように。私の好きな書き手は言っていた、楽に生きるには工夫がいるのだと、私は工夫を施したい、私が楽に生きれるように、いつだってそう、私は私のより善き生のことを考えている。同じ人はこうとも言った、生きるのが楽しくないこの世界で自ら死ぬ勇気がないなら自ら楽しく生きねば損である、と。いつだってそう思うのは難しい、今すぐ消えてしまいたいと思うし、楽しいことがないことばかりを恨んで、自分を変えようとしなかったりする、それでも、本当はそう思いたいんだと思う。

 

私以外がいるのだから私以外がよろしくしてあげたら良い、冷たいだろうか、排他的だと言われた、多分冷たいんだろう。自分の最初は棚にあげて、良くないところばかり目についてしまう、そしてやっぱり特別関わり合いになりたくない、面倒くさい。

結局のところ、冷たいのだ、でも別にそれで良いと思っている、冷たいのはいつも通りだろう、とにかく迷惑さえかけなければ。迷惑をかけるつもりもかけているつもりもない、今のところは。分からない、こういう発想自体が良くなくて、迷惑なのかもしれない。私に極力関わらないでくれというオーラを発散させているかもしれないしな、私は態度に出やすいから、それは十分に迷惑なことではないだろうか。

というか私はそういう事で辞めたのではなかったか、嫌なことは他人にはしないというのは大事なことではないのか。とは言っても、積極的な参与が嫌なだけであって、手を貸す気がない訳では全くない。聞かれたら、自分ができる最大限で答えようという気持ちはある、聞かれたらだが。
その人がというよりも教えるという行為自体が苦手だ、苦手ではない、嫌いなのだ、正直なところ。自信がないから、要らぬ予防線を張りに張ってしまう。だって今後に繋がるし、最初はやっぱり大事だよ、土台になるし、私の下手な指導で今後大変なことになる可能性だってなくもない、こういう言い訳を積み重ねてしまう。いくつもの予防線を張るのは性めいているので、今に始まったことでもないのだけども。

あと、行動を監視されるのはひどく居心地が悪い、見られているとぎこちなくなってしまう、視線は少し怖い、だから他人にやるのもちょっと苦手なのだ。最初は何するか分からないし、見守ってあげるべきなのも分かっているし、私はそうやって見守ってもらったはずなのだけど、そして他人は大して気にしてないかもしれないのだけど。
まあ、私の愛想が悪かろうと別に気にしなくても良いだろう、別に一緒の場にいるだけなのだし、そして嫌われたところで大した事にもならないだろう。皆に対してもこう思えたら良かったのだけどな。

などと考えていたのだけれど、もう考える必要がなくなってしまった、その人は私たちの目の前から消えてしまったので。ひととは何て難しいんだろう、改めてそう思わされた、理解の外側にひとがたっているということはままあることで、時々そのことを忘れてしまうし、私も誰かにとってはそこにたっている人かもしれない。人は言った、自分も辞めたから人の理由に対して何も言えないのだと、そうだった、そうだった筈なのに、私の理由はきっと誰にも理解されないと思っていたのに、どこかで理解してもらえることを望んでいたのに、どこまでも人は残酷になれるものだな、良くないことだ。

 

人間に対しては概ね加点式な気がする、多分、最初が好きじゃないから。好きじゃないか、嫌いか、好きか、普通の4種類な気がする、大抵の人間はそうだろうな、知らないけども。無関心は少ない、普通に属するのかもしれないけど大抵何かしら思っている気がする、何かしらを。本当は無関心が望ましい、嫌いより無関心の方がよっぽどである、ということを分かった上で言っている、分かった上で他人への無関心を望んでいる。

あるいは、無関心になれないなら、いっそのこと嫌いになって、関わらないで済みたいという気持ちもある、嫌われるより前に嫌いたい、飽きられるより前に飽きたい、傷付かずに済む、私が。私はわたしのことしか考えていない。高校生の頃そうだったことを思い出す、あの頃は本当に酷かった、恥ずかしい、他人の痛みにはどこまでも鈍感だ。でも今もどこかに残っている気持ちで、時々そいつは顔を出してくる、多分義務教育期間の人間関係に起因する習性なんだろうというぼんやりした言い訳がある、言い訳でしかない。過去に何があったのと言われるが、そういう事たちだよというしかない、勿論言わないけど。
自分がいちばん下だと思っている割に、他人への要求が高いのも最初が好きじゃない理由なのかもしれない、悪い癖だ、とはいえ下だと思っているからこそなのかもしれない。私でさえ出来ているのに、という事なのかもしれない、とにかく他人のことは馬鹿にしたくないのだ、他人というか個人のことを。自分がいちばん最底辺だと思っている割に、何故人間はという気持ちには良くなる、なってしまう。良くない悪い癖だが仕方がない、心が狭くて冷たいから、これもまた悪い癖、言い訳にすらならないよ。

結局、私の馬鹿にしたくないという意識は円滑なコミュニケーションの為のものであって、無関係な他人には働かないのかもしれない、まあ円滑なコミュニケーションを行えた試しがないが。馬鹿にした相手とちゃんとコミュニケーションをとれるかというと、私には多分難しくて、だから馬鹿にしたくないのだ、和は大事だ、私がいうと馬鹿にしているようだが。

 

 

あなたの言葉をまた欲している、欲しているからデータに金銭を払う、払った報酬はあなたの言葉だ。
言葉はこんなに世界に溢れているのに、あなたの書いた言葉に価値を見出だして、報酬を払おうと考えられる自分のことが嫌いではない。私のように考える人間が一定数いることは分かっている、別にこれは私だけが価値に気が付いているといった意味の言葉ではない。
職業的でも趣味的でも言葉を扱う人間に対して惜しみなく、その言葉に価値を見出だして、報酬を払えることは私にとってとても意味のある事だ。
言葉で人生を燃やし尽くせる人がいるのだと、感じられることは、至上の喜びといっても良い。自分も扱っているものを他者が扱った時に同じものだと思えないことは、苦しくも幸せだ。いつだって思う、私もおなじ言葉を扱っている筈なのに、どうしてこうも違うのだろうかと、どうして私はああはなれないのだろうかと。暗い気持ちになる反面、朗らかな喜びがある、あんなにも美しく在るものなのかと。まだ捨てたものじゃないな、と思える、すべてのことが。
世界を書き尽くすことは出来ない、私とあなたとでは世界の見え方が違っているから。私の世界を書き溢して、私の世界にはないものを書き連ねていく。私とあなたの世界は同じではないから、私たちの数だけ世界はあるから、書き尽くすことは出来ない。そして、言葉は万能ではないから、私が世界を記述しようとしても、正確に記述することは出来ない、どうしても零れ落ちてしまう、私の世界なのに、私は正確に写しとることが出来ない。正確に写しとることが出来ない上に、あなたに正しく私の世界を伝えることは不可能だ。正確に写しとることが出来なかった時点で正しく伝えることは出来ないし、それ以上に、写しとったそれを私が書いたことの通りにあなたは受け取れない、受け取ることは出来ない。
どちらが悪いとか、そういうことではない、もし責めるならば私の不出来さだが、どれだけ努力しても、正確に思念を言葉に写しとることは難しい、転写のようにはいかない。それでも言葉を使うしかない、言葉は十全には機能しない、私の想いを、あなたの考えを、十二分に伝えることは出来ない、出来ないことを分かった上で、絶望的なそれを理解しながら、それでも伝えようと足掻くことはきっと無駄ではないのだ、それを私は愛と呼びたい。
前に書いたことと違っている、違っているけれど、こういう前向きな気分の時もあるのだ、言葉に生かされていると感じている時は、こういう気持ちになれる、なれてしまう、諦めたような顔をして、何も諦められていない。諦念じみて生きたいのに、難しいな、足掻くことは惨めなのに、醜いのに、なんで煌めきを感じてしまうんだろう、複雑怪奇にやっていくしかないんだろう、私の生き方はきっとそれしかないのだ、本当のところ。

 

早あまり推敲する気が出ない、出して満足してしまう、行儀が悪いな。だって、すぐに考えていることは変わってしまう、私はそういう所があって鮮度が命だ、明日にはすべてがひっくり返ってしまっているかもしれない。とはいえ、表現の仕方は荒くて恥ずかしくて、何とか少しでもましな形にしてから公開したい気持ちもなくはないのだ、だから毎回読み直して、少し形を整える、整っていると勘違いしているだけで他人から見たらどうかは分からない、個人的な感覚としては整えているのだ。

まあ、こうやってダラダラと書こうと思えば、何となく出力できてしまうのだけれど、とにかく今は寝てしまおう、これではほとんど朝みたいなものだ、今日もまた現実と向き合わなくてはいけないのに、いつまでもこうやって現実逃避をしている、馬鹿みたいだ。寒い部屋で体育座りのせいか少し痺れた左足のことを思いながら、異常に冷えていると感じる左手とそれよりはまともな温度であるような右手を使って、この文字をうち続けているが、それも終わりにしましょう。

それでは、素敵な日曜日を、みなさま、どうか。