静電気

また5月がきたよ

 

1月に何も書かなかった。少しだけ後悔している。言葉が浮かんでは消えて、何もなかったような顔をしている。彼らはどこへいってしまったんだろう。

憂鬱な時こそ、アウトプットが大事である、ということば。そうなのだろうけれど、空っぽであるような気持ちでいつもいて、出していくものがないのだよという感覚。だから中身を埋めるように食べていくのだけれど、どこかでもう食べられないよ、といってるようでもあって、何だかんだ忙しいね。

とりあえず1月は全然排出が出来なかった、という部分はあるのかもしれない。だからといってそれが私にどのような影響をもたらしたかというと分かりません。最低1ヶ月に1度くらい、こういう長いなんともいえない文章を外に出したい、そんな気持ちはあるのですが。

 

リソースを割かない会話は楽であるし、私という人間はおおよそ割いてない脊髄反射に似た会話をしがち。もっとリソースを割いてきちんとした会話をしたら良いという気持ちもあるがうまくいかない。ただ単に面倒なだけなのかもしれない。あと話せば話すほど、楽しくなればなるほど、後での後悔が大きくなるのだよね。

調子に乗ったあとのそれこれ。どうもこういう会話の、人との交流の仕方でひとり反省会をするタイプの人間は一部で、大多数の人はしない、などというのも見た。それって本当ですか?まあ程度というものはあるよね、私は良くするのだけれど。でもってそれは活かされてなかったりするわけで、無意味なひとり反省会なのであった。

 

世界との浸透圧が違う、という言葉が頭に浮かんで消えません。何ででしょう。

自分は他者とは異質な存在である、だなんて事は言えないけれど、多少の疎外感は、馴染めなさを感じているんでしょうね。とはいえ、生きていれば感じる感覚なのではないでしょうか、死ぬまで一度も感じなかったなんて人、居るんですかね。

私はそれを幸せだとも不幸せだとも思わないけれど、まあ感じない方が楽しい感じ、しなくもないですね。

 

 頑張れなさ、という言葉がすごく、のしかかってくるのですね。ちっとも頑張れなくて駄目であるな、という感じ。頑張れなくて、頑張れない自分が嫌で、それでも頑張れないという馬鹿みたいなサイクル。分かるよ、という共感は救われるような、同じようなどうしようもない仲間が増えただけのような。最後にはどうしたって一人なのだからね、そんな仲間、意味がないのだし。

やりたいことってなんなのだろうね、やりたいことが見つけられたらそれはとっても良いことであると思われるし、もし何かそれになりたいなら頑張りなさいよ、という思いがあるのだけれど、ほんとになりたいのかな、でもそんな問答に意味などない。

 

こういう風になりたい、っていうのはころころと変わっていく。それが悪いことか良いことかは言い切れないけれど、まあ私個人の意見としては良いとは言いにくいことであって、だって何だか適当だ。本当になりたかったんですか、そんな疑問。

でも人間ずっと一緒で居られないのだもの、いろんなものでいろんなことが変わっていってしまうのだよ。良い意味で変化していきたけれど、悪い意味でいうか自分が望まない形でもひとは嫌でも変化していっちゃったりして、なんていうか生きていくってそういう事なのかしら、なんて思わなくもない。

好きなものはずっと好きでいたいし、嫌いなものには寛容でいたい、なんていうかそういう感じがある。これはそんなに簡単に変わらないのではないかな、でもなんでだろうね、すべて簡単に手放せちゃったりする、そんな身軽さというかそういうものにも憧れがなくもない自分ではある。

身軽な人間は何だか淡い感じがして、羨ましいのだ。あと何だか、頭の回りが良さそうという幻想を抱きがち、何故。身軽な人間、とカテゴライズしている人間がそういう傾向にあるのだろうか。そんな気がする。

 

私にとってこういう風になりたい、は職業とかそういうものではなく、感覚感性といったひたすらに内面。それってとっても真似が出来ないものなのだよね。なんてったってこっちはこれでずっと生きていて、三つ子の魂なんとやらで、そんな簡単に変えられっこないのだな。意識的に変化させていくのもまあ出来なくもないけれど、なんていうかそれなりに私には大変。

あとあくまで猿真似であって、どう足掻いたってあの子には、あの人にはなれない。コピーはオリジナルを越えられない、多分。私には無理である、到底。憧れが増えていくと、憧れたちが相反して、どちらにいけばいいのか分からなくなる。これが苦しくて、私はぐったりしてしまうのだよな。だってみんな凄く羨ましくて、好ましくて良いのに、すべてを手に入れることなんて到底出来ないのだ。感性が分断していく。

だから、どれかを選択して、自分だけの何かを作ろうとしているのだけれど、良いとこどりって難しい。自分だけの何か、それって好ましいものになれるのだろうか、そういいう事も考えてしまう。

私にとっては自分の感性が憧れるところの人格であり、感性であったりするものに近づけないこと、理想から離れている自己がとても苦しいのだろうな。 憧れるって苦しい。どうしたってこのままの自分を好きになってあげられない。

 

映画を今年に入ってからいくらか見た。現実逃避ということば。本もいくらか読んでいる、これもとっても現実逃避。

何度も読んでいる本を読んだり、欲しかった本が文庫になり買ったり、少しだけ積んでる本を読んだりした。映画も観ようと考えて録画していたものを見たり、映画館に行ったり、借りてきたり、そんな感じである。

人と観た後の予告動画も良いという話をしたりした。観た映画の予告動画も面白いのだ。定期的に観たくなる予告動画というものが私にはあるし、彼女にもあるみたいであった。読みたい本がどんどん際限なく膨らんでいって、それは実は憧れに起因するものだということも分かっているのだけれど、面白そうだと思っていて、頭の片隅に引っかかっていたそれらも含まれているのだから、俄然読みたいという気持ちになる。近々図書館に行くことになるのだろうな。

 

多分これらを読み返していくと同じようなことを書いていることがあるのだろうし、私はちっとも成長していなくて、それは変わっていないということであるね。ちょっとでも良くある方に転がっていて欲しいのだけれど、そんな変化が起きるようなこともなかった気がするので、書いてあることは殆ど一緒なのだろうな。同じところをぐるりぐるりとずっと回っていて、抜け出せない迷路みたいなものですか。というかこれらの疑問のような細々とした物事に終わりなんて、出口なんてあるのですか。ずっとずっと迷っているままじゃないのかな、自分から迷って、勝手に新しく迷路を増やして、出口を塞いで、そんな感じが実はあるのではないですか。

いつかルール違反であるけれど、迷路の壁を破壊しちゃえるような、そんなことあると良いんだけどな。考えることが変わらないのは安心すると同時になんだか、恥ずかしいようなそんな気持ちになる。

 

 雪がたくさん降って、外が一晩で白く埋まってしまった。昼には晴れて、青く空が広がって穏やかに暖かかった。白い塊たちは溶けてなくなってしまって、目を瞑って、瞼を透かす光は白くて、とても綺麗だった。電球ではみえない白い光はなんだか淡くて、全部が本当に白くて溶けてしまいそうだったよ。そんな2月です。