静電気

また5月がきたよ

 

どうしようもなく日々機能が低下して、何でもなくなってしまう。元々大した機能もない訳で、人からしたら何も変わってないのだろうけれど、私はそう感じている。毎朝起きる度に朝を呪う。一生眠り続けて、こんな馬鹿げた考えたちから解放してほしい。眠っている間は何も考えないでいられる、とはいえ、夢のなかでも一応考えているだろうか、でも起きたらそれは忘れるから良いのだ。でもですね、起きていれば何かを考える羽目になる。もう何も考えたくない。嘘だよ、分かっている、思考だけが人生だ。

 

好きな女性が私が面白かった映画についてのエントリをあげていた。ああ、こういう見方も出来るよなと思う。彼女らしい、と思う。彼女のことなんてろくに知らない癖に。そういうものを彼女は多分嫌っているのに、そう思ってしまったのだから、仕方がない。そんなことについて、私自身に嘘をついて何になるのだろう。
同じものを観ても、同じように感じられる訳ではないし、同じように感じたとしても言語化の仕方によって、まるで違うことを感じたかのように感じられたりする。たくさんのフィルター越しに私たちは生きている。

彼女の文章からは全く感じなかった訳ではない、言語化出来なかった部分が言語化されているような気がした、何を言ってるんだと思わなかったからっていうただそれだけの理由でしかないのだけど。どこかで感じていたのかもしれない、感想を言う度に何か間違っている気がして、そう言えば分かりやすいけれど、そうは言いたくなさが私にはあった。それとも彼女の文章だからそう思っているだけなのか。だとしたら、本当に馬鹿げているのだけど。匿名であのエントリを読んだらどうだっただろう、でも私には彼女が書いたことを知っているから、もう分からない。私の公平性はどこにあるんだろう。とにかく分からないけど、ああ、そうだねと思ったし、彼女らしいなとも思ったのは変えようのない事実だ。
彼女の文章は、批評は、私の心を容易く揺さぶる。彼女のように書けたら、といつだって思ってしまう。書けたらどうなんだろう、どうしたんだろう、何になるんだろうな。それでも彼女のようになれたら、と思ってしまうね、今日も隣の芝生はとても青い。

 

自分の興味のあったものたちを削り落としている、断捨離を続けている。悪趣味な過去の悪癖、今してないのは私が変わったのか、そういう人が周りから居なくなったのか。多分、後者だろう。それは良いことでもあり、悪いことでもある気がする。目に見えない過干渉、私の飽くなき好奇心。悪いことでは絶対ないのだけど、何だか褪せていくような気がして。褪せてしまいたいと思っている癖に、矛盾しているなといつだって思うけれど。矛盾は私の魅力ですか、誰か私のこれを肯定してくれ、とはいえ私が認めなければその肯定に意味は発生しないのだけれども。

 

己の空洞を埋めなさい、囁き声が頭のなかで反響する。ぶわぶわと、頭を埋めていく。音楽を聴きなさい、映画を観なさい、本を読みなさい、食べなさい、飲みなさい。知らないものを内に入れることは知ることだ、そう思うと食も小説などと変わらない。

何でも知ってるねと言われるとたじろいでしまう、私は何も知らないと思う。実際、知らないんだ、何も。まるで嫌味のように感じてしまう、そういう考え方は悪いところだけど、でも思い上がる位なら卑屈な方が性に合っているんだよ。可愛げはないかもしれないが、何も知らないより何かを知っている方がいい。知っているという優位性がある、優位性なんて思っている時点で駄目で可愛げがないことは分かっているのだけれど。そして繰り返し申し上げるが、私は別に知っている方でもないのだけれど。
可愛げが欲しいのかと言われると分からない、いや嘘だ、可愛げがある方が良い。良いのだけれど、努力をするのは面倒臭いし、私はさっき思った事をすぐにひっくり返すような人間であるから、これを書いた明日には違う考え方をしている可能性はある、繰り返し書いていれば、多分本気で思っていることになるので、今後に注目して欲しい。

無知が可愛いのは若い間だけだろう、多分。私の悪いところのひとつは男性は馬鹿がお好みだと思っているところ。とはいえ、男性好みのお馬鹿な女の子は私よりずっとクレバーだ、分からないけれど。これは私のイメージでしかない。本当の意味でお馬鹿な女の子は彼らの好みではないとは思っている、でもお馬鹿な子の方が好きなんでしょう、とも思う。その加減は私には分からない、私はお好みのお馬鹿さではないという確信がある、私が馬鹿ではないと言ってるわけでは勿論ない。とにかく、卑屈だからこんなことを考えてしまうのだろう、多分。

 

音楽が変わるだけで景色が違ったように見える。BGMが違うだけで映像の雰囲気が違って見えるように、景色だって違って見えるのかもしれない。とはいえこれは現実で誰かが撮った映像ではないから、気分の問題でしかないことは分かっている。気分はつる植物のよう、気分にすべてが絡めとられて、ずぶずぶになってしまっている。

寝る前はあんなに安定していたのに、起きたら地の底だった。毎日それの繰り返しだ、眠る度に死んで生まれ直しているのだろうか、だとしたら仕方がないと思える。連続した精神なのか私のものなのに疑わしい。

外れることを厭うならば、自分で完全に定めた規律を作ってから厭うべきなのではないかという発想で頭が膨れる。発想を現実にしたいと思いながらも、DVDなどを観る。人嫌いで傲慢な性悪女が主人公だった。私は品が良くありたいと思っている。思っているが上品なだけの人生など面白みに欠けるのも分かっている。上品で面白みのない人生こそ、あなたが望む淡々とした生なのではと言われると否定もしづらい。
私の自己を引き裂くのはいつだって私自身だ。理想と現実だけではなく、理想と理想ですら矛盾しあって、バラバラになっている。繋ぎあわせられるのは私しかいないのに。
上品な顔をして中指をたてて生きていきたいと思っている。何もかも分かってほしいけど、何も分かってほしくない。知ってほしいけど、踏み込んでほしくない。偽物を纏って騙したい、騙していることを悟られたい。単純に見えて、底が分からなくありたい。すべてが厭わしい、煩わしいのに、すべてを欲している。ひとりは疲れるけどひとりは楽だ。いったりきたりで目が回って、苦しくなる。一体どちらなんだと思うが、それはきっと両方正しくて、どちらかをやめることが出来ない。浅ましい願望だ、底の浅い私の願い。いつだって多面体でありたい。
多分、出来るならば矛盾を愛して、抱き抱えていたい、きっとそうするのがいちばん現実的だ、妥協案だ。捨てたいと喚きながら、すべてを捨てられない私にとっての。本当はグレーを好めばいい、好みたいのにどうしてかいつも黒か白かをはっきりさせたがる。複雑でありたいと思うと同時に、単純明快さを求めている。

好きなものがたくさんあるのは良いことだという素敵な女の人の言葉を聞く。私は物を持たないのが好きだという言葉も聞く。私もそうなりたかった、頭のなかも自室も、データも抱えすぎている、無駄なものたちを。

白黒つけなくていいじゃない、今有している私の複雑さを好ましく思っている人が1人でもいるならば、生きていけるじゃないかと思うのに、難しい。複雑さのある人間でありたいと言って、複雑怪奇な人柄を有していると言われると、怪奇……となってしまうが、複雑さを感じてくれる人がいるということ、そういう複雑さがあなたの魅力であるのだと言ってくれる人がいるということを思う。珍しくもそうなのかと納得し、安心したくなってしまう自分がいる。

とはいえ、私はわたしに何度も繰り返し耳に囁き続けている、ずっと繰り返し言い続けている、己を愛するのは己のみであるということを。己を愛してくれる他者は有り難いが、結局のところ、どこまでも他者でしかなく、私がわたしをというところに帰りついてしまう。私がわたしを認めない限り、許さない限り、愛さない限りは、このままであるということ。