静電気

また5月がきたよ

 

今から読むのはきっといつもより出来の悪い文章たち、それでも吐き出さずにはいられないのは、私にとって書くという事はそういうことなのだという気持ちにもなる。

彼女のようなヒステリックとヒロイズムの昇華はないけれど。

 

ここ最近でもっとも明るく、穏やかな様子に思える窓の外に対して、私の内側は暗く、荒れている。昨日の晩も今日のことを考えて、どう考えても片付けなければ大変なことと思いながらも、陰鬱な気分に負けて、布団に沈んだ。眠る前から憂鬱だったように思う。データをひたすら取捨選択し、削除し続けていた。要らないものを捨てているのに、気分は良くならず、どうしてこんなものを抱えていたんだろうなどとせんのない事を考えてしまい、気分が少し落ち込んだ。何故だか分からない、最近はずっとそうだ。
最近は気分の照り降りが激しく、私がわたしに驚いてしまう、今だかつてないほどだとさえ思える。何だか苛立って、落ち込んで、仕方がない。理由がない不安感で胸苦しさに堪らなくなる。不安定であることを認識すればするほど、安定性を欠いていく。
寂しくて悲しくてどうしようもなく叫び出したいと思っていたのに、もう誰も要らない、私は大丈夫だと微笑みを浮かべてしまう。勿論、幻想でしかなく、私の笑みは凍りついて、すぐに剥がれ落ちて、顔を苦痛に歪ませる羽目になる。

 

共犯者が欲しい、私の人生の。何の共犯なのかは分からないけれど、共犯者と言われる存在が必要だ。別に人生にドラマや事件は要らない、嘘だ、あった方が楽しいが、それは些細なことで良い。毎日機嫌良く生きる為のスパイス程度が望ましい。とはいえ、きっと私は毎日不機嫌だし、そんな人生は訪れない。望めば叶うというが、望んでも叶わないことを望み続けるのは呪いだ、これもまた繰り返しになるが。

 

歯磨き粉と唾液の混合液を口から押し出し吐き出す時、からだの内側が捲れて、口から吐き出されてしまうような気持ちになる。私の内側が裏返って、剥き出しになるような感覚がする。えずく様はまるで老夫のよう。
窓のそばの椅子に腰掛けて、太陽の柔らかな光を見ていると、このままゆっくりと干からびて、どこからか吹く風に飛ばされて、消えてしまえるのではないかという想像をしてしまう。椅子に座っていた私は白く乾いた粉になっている。

 

本を読むのは好きなはずだが、上手ではない。読書に上手い下手などあるのかと言われるとない気もするし、あるのだよなという気持ちにもなる。私の感覚の問題なので、そんなことを思い悩む必要はないと言われてもこればかりは仕方がない。

本を読むときどんなことを考えているかと言われれば、あまりなにも考えてない。だから批評もない、面白かったかそうでもなかったか位しか言いようがない。まあ大抵は読みきれた時点でそれなりに面白かったという判断を下している気がする。私はキャラクターを愛しているから、構成とか難しい話は一切できない。あるいは読んでいて気持ちがよいか否か。良くいう文体が好きに当たるやつだ。読みやすいというのもこれに属すのかもしれない。要は非常に感覚的で感情的な行為なのだ、私にとっての読書は。とはいえ、私が難しいと思ってしまうこと、例えば構造についての話をしている人は好きだ。理論的な人間を好む私らしい好みであろう。だからこそ自分は不甲斐ないと感じてしまうのだと思う、これは訓練の問題であることは分かっている。何も考えずに読むことを止めて、読んだ後に出力をして、などの努力をすれば良いのである。そう、努力をすべきなのだ、もし自分の読書の仕方を嘆くのならば。
読書におけるシンパシーとワンダーの話もあるが、私の感覚としてはそこまでシンパシーに重きはおいてない。フィクションにまで共感を必要とするのは苦しい、現実だけで充分だ。私がわたしのままで他者の人生を覗けるのがフィクションの良さではないか、これはあくまで私の思いで、共感がすべてであるような人を貶す意図は全くないし、私の読み方を共感に重きをおいてると思っている人がいる可能性もあるので、そこら辺は擲ちたい。心に寄り添ってくれる本は好きだし、でもこれも共感か、よく分からなくなってきたので、これも投げます。思考放棄する豚と謗られても、構わない。いややはり構ってしまうので、謗らずに内心に留めておいて欲しい。
だからあまり私のための本だとか私のことが書かれている、みたいな気持ちはあまりならないし、ちょっと照れてしまう。ある若くて、素敵な海外の女性アーティストが言っていた。これは自分の曲だと思える曲があったら、それはあなたの曲であり、他人が愛情込めて作ったそれを自分に取り込めるのは良いことであると。あくまで彼女の考え方でしかないけれど、それはとても素敵で格好よいことのように思われた、だって彼女が、クリエイターが言うのだから。受容者が言ったところで何ともならないのだ、創作者が言うから意味のあることのように私は思う。

何故こんな話をするかというと、読んだ本にあまりにも見知った感情が記されていて、戸惑ってしまった。見知った感情という表現ではなんだか違う気もするし、けれども私のことが書いてあるというのはもっと違っていて、今出来るいちばんの表現は見知った感情である気がする。

 

何の音か分からない機器の連続した空気が抜けるような音、元気としか良いようのない同室の人、目を瞑る彼女の白んだ顔、赤と透明の管、揺れる緑の電子の線。不穏と安静と清潔さの満ちた空間は精神をひりつかせる。

上手くやれない、正しい振る舞いを知らない、ぎこちなさが私を押し潰す。あなたも私もいつかこうなるんだろうか、同じようにはならなくても、それは同じことだ。

老いと病はどうしたって追い付いて、腕をあるいは肩を組んでくるのだということ、仲良くしようと諦めたような笑みをあるいはねばついた笑みを浮かべてくるのだろうということ。

私はその頃には上手く振る舞えるようになっているのだろうか、あるいは彼らとの足取りの揃え方を学んでいるのだろうか。

 

消費だけが救済で、消費が私を蝕む。救済と破滅が入り雑じって、私と踊る。他の踊り方を知らない、いつだってめちゃくちゃな踊り方をあなたとはしてしまう。

余計に裂け目が広がっていく、踊る度にほつれてしまう。誰もドレスを直せないのに。

 

私のヴィジョンに彼女が入り込んでいるのを感じる。あなたには分からないかもしれない、あくまで私の気分の問題でまやかしで、そうありたいだけなのかもしれない。そうありたいとは思っていないけれど、出てくるものが普段と違っている感じがして、それは彼女の香りがするような気がしている。

ある人は付き合う人によってLINEの文章が変化する話をしていた。私の場合はどうだろう、出来の悪いコピーキャットのようだろうか、彼女のように書きたいとは思っていないのだけど。影響されている文章になっている気がして仕方がない。考えすぎだろうか、そうな気もする。