静電気

また5月がきたよ

最近のこと

 

最近は本当に文章を書く、ということから離れていて、こんな無益な、誰が読むのかも分からない、ただ自分が文字を吐き出して満足するということすらしなくなってしまっていた。何だか凄く悲しいことですね。

誰にも読まれないアナログな日記は時々思い出したようにつけているのだけれど、今日は久し振りに誰にも読まれないオープンな日記を書きたい気分になりました。

 

昨日は誕生日で、誕生日という何となく無敵な気持ちになれる日が終わって1時間ほど経った訳です。

もう大きくなったね、とただ笑えるような歳ではなくなってしまった。歳をとったこと自体を喜べなくなってしまったけれど、やっぱりおめでとうと言われるのは嬉しい。表面を撫でるような気持ちだとしても、私に対して言ってくれている言葉なのだと思うとそれなりに喜んでしまう。素朴な人間だと思う。

母に何年前の今日に生まれたのだね、と今朝言われて、何だか遠くまできてしまったような気がした。勿論、これからもっと遠くなるのだけれど、やっぱり遠くまできてしまったのだと思う、だってもうおとななのだし。毎年誕生日を迎えると思っている気がするけど、幼い頃に想像していた20代というのはもう少し大人だった。大人ってどういうことなのか言えないし、良く分からないけれど、漠然と大人なのだと思っていた。きっと幼い頃の私はこんなおとなになると思っていなかったと思う。恥ずかしいと笑うだろうか、きっと笑うと思う。だって、今の私は恥ずかしいし。

それでも今の私はこうでしかないので、幼い私よ、どうか笑って許してほしい。

 

どうでも良いことをぼんやりと考えている間に半年くらい経ってしまっていて、吃驚する。前回書いた文字を適当に読み流して、ああそうだったね、と思ったりする。もうあれから半年も前になってしまったのだなと思う。それなりに今が楽しくて、本当にあれは過去になってしまった。良いことだと思う、あそこから逃げたことは正しかったと思えている。逃げずに済ませられたならば、もっと良かったと思うけど。でも仕方ないし、やっぱりその選択を後悔はしていないと思う。

環境が変わってから4ヶ月、月日が経つのは本当に早い、歳も取る訳だ。

環境が変わってから思ったこと、あるいは思ってしまった事がある。人と話して、それなりに前を向いていると思うのだけれど、まだちゃんと自分の中で折り合いはついていないのだと思う。結局何を話しても、自分がどうするかでしかない。それがいちばん苦手なことだ。

思ってしまった事、私はそれなりに本が好きなのだと思う。こんなぼんやりとした言い方しか出来ないのがもどかしくもあり、言い切ってしまう自信がないこともまた事実なのだ。だって、クリックひとつで、画面タップひとつで、私の好きは大したものではないという事が分かってしまうから。私の好きをそうやって、自分で卑下しているのだとは分かっているのだけれど、卑屈になることをやめられない。人は思ってないことを自分に強いているのだと言う。思ってないことはないと思うけれど、強いているという部分は否定できない。

自信が持てないけれど、それでも、私はここにいる人間たちに負けたくないと思ってしまったのだ。好きであるという気持ちを、それなりのアンテナを張っているという気持ちを。勝つってなんだ、と思う。好きな気持ちを他人と比較できないように、勝ち負けなどどこにもないと思う、それでも、そう感じてしまったのだから仕方がないのだと思う。全部知るなんて絶対無理だけれど、知らないということが恥ずかしいと思ってしまう、それを知らないなら生きていけないと思ってしまう。だから私は負けられないと思ってしまった。でもそういう気持ちになってしまったということが、本当に恥ずかしくて、辛いなとも思ってしまう。

本が好きで、でもそれらについて何も言えないということを、いつだって私は恥じている。人は言う、勉強していないからだと。そうだと思う、そうだ、だから私はいつだって耳が痛い。勉強するってなんだろう、勉強なんて私はきっとちっともしたくないのだ。馬鹿な自分を恥じるだけで、何もしない。恥じていればそれで良いとでも思っているのだろうか。私は語りたいのだろう、何を語りたいのか私にだって分からないけれど、語る言葉を持たないことをいつだって恥じている。だったら、勉強するしかないのだ。語りたければ、勉強を。勉強しないならば、沈黙を。

沈黙を愛せられれば良かった、勉強を厭わない自分が良かった。そう思っていつだって、苦しい。だったら全部やめてしまえば良い、根本を断てば良い。好きじゃ無くなれば良い、関心を殺せばいい。負けたくないと思ってしまったそれを、それから関心を失ったら私ではなくなると思ってしまったそれを。馬鹿げている、分かっている、どうしてそういうようにしか考えられないのだろう。でも私はそう思ってしまった。やめたいのだと。でも、いつだって本のことで頭がいっぱいなのだ、何を読みたいか、買いたいか、借りたいか。苦しいのに、考えるのをやめられない。きっと好きなのだ、本当は好きで胸を張りたいのに、張れなくて苦しくて、馬鹿なことばかり考えてしまう。

そういう気持ちでぐるぐるといつだって足踏みして、私は置いて行かれる。他の人間は私を置いて、歩き去っていく、ずっと前を歩いていく。その間に私はみるみる老いていく。だって時が経つのは本当に早いから。人は言うのだ、私たちには時間がないのだと。だから、決めなくてはいけない。決めてしまわなければいけない。私はどうしたいのか、どうするべきなのか。でも今日も私はその選択を先延ばしにする。

とりあえずは、本を好きですと、多分などという言葉で誤魔化したりせずに、好きなのだと言えるように、恥じたりしないようになりたい。こんなことをいうのだって、恥ずかしいのだけれど。

途中のこと、

 

5月になりましたね、皐月。GWも終わり、日常が身を浸していく。 

GWはアクティブに動いていたので楽しかったが、疲れてしまった。人と会って楽しかったのに、疲れたというと失礼な気がして、ここでしか書けないなと思う。近いことを言う事があるが、何となく、ここでしか言えないような気持ちになる。

人と話すと元気が出るが、やはり疲れてしまうのだろうな、仕方がないことだ。

初めてアルコールで失敗をした。何だか失敗と言うと大げさな感じがしてしまうが、あれは失敗であろうし、本当に申し訳なくて、生まれてきたことを後悔してしまっていた、今に始まった話ではないが。

自室がごみ溜めのようになっている。ゴミ袋にゴミ袋を入れる、本の塔は高くなるばかり。自室でお香を焚いてみたいが、本が、家が燃えてしまうといった考えが消えないので、焚けない。

欲しい本を見ながらため息を吐く午後15時だ。銀行へ行く。

 

といったことを書いたブログをずっと下書きにおいたままに、5月は、6月は過ぎ去って、もう7月になってしまう。

PCで書く方が好きで、でも平日PCに向かい合う元気がなく、そうしたら書かぬまま人生は流れていく。毎日馬鹿げたことで精神を削られつつ、私は息をしている。馬鹿げたことであることは私が良く分かっているし、削られているという考え方も馬鹿げているのだと思うのだけれど、削られていると感じるのだから仕方があるまい。私の甘えを、どうか許してほしい。

どうしてこんなに辛いのか、どうしてこんなにも辛いと思ってしまうのか、私がわるいのか、何度も同じことで泣いて、仕方がないのに考えて、こんなにも苦しい。休みの日くらい、好きな物のことだけ考えれば良いのに、すべてを黒く塗りつぶしてしまう。

 

そんなことを書いていた6月の休日が過ぎ去って、今は7月。

相変わらず私は黒く塗りつぶされた毎日に居る。私の考え方のせいだろうか、お前は好き好んで毎日を黒く染めているのだと言われると、そうなんだろうかと考えてしまう。

お前たちに壊される位なら、辞めてやると思っているのに、うまく出来ない。勝手にお前が壊れていくだけだろう、と言われたらそれまでだ。それまで、それまでだけど、それは困るよ、私のなのに。でも、私が勝手に壊れていくだけで、あちらは何も悪くないのかもしれない、悪いとか悪くないとかそういう表現もきっと間違っているのだろうとも思う。何も分からない、分からないからすべて投げ捨ててしまいたいけれど、何も解決しない。でもこうやって考えていても何も解決しない。

当たり前のことで怒られて辛くなってるだけなのだろうか、そうならば私が悪いのだろうし、君が間違っているんだと言って欲しい。そしたら私はその環境に適してないのではなく、これ自体が駄目ということで、なんというか、平たくいうと生きていくのに向いてないのだなと思う。

怒られるのは大嫌いだ、本当に好きじゃない。とても苦手だ。でも私は優れた人間ではないので、怒られながら生きていくしかないのも分かっている。ささくれていると感じてしまう言葉を投げかけられることを考えると、心臓がぎゅっと痛む。何も考えてない人間だという自負の下、生きているのにこんなにも考えてしまって辛い。

大した出力でもないけれど、こんなことを言う為に私はキーを叩いていて、本当に馬鹿みたいだとは思う。思うのだけれど、止められない。馬鹿げている、何もかもを放棄してしまいたいよ。

私は頭が悪いので文化的であるとは思えないのだけれど、それでも最低限の文化的さ、私の勘違いであっても最低限文化的でありたい。この環境でもなれるんだろうか、なれるのかもしれないけれど、精神的に難しい。精神の在り方は私次第で何とでもなるのかもしれないけれど、こういう風に今まで生きてきた訳でそれは難しい、本当は私が変わらなければいけないのに逃げているだけだろうか。私は弱い、弱いから強くならなければいけないのに、周りを変えてしまいたいのだ。変えて、良くなりたい。ここから早く逃げ出したい。

私が人生で結局大事にしたいことは何だろう、と思った時に本かもしれない、としか思えないのだ。だから私はここには居られないと思う。

 

ここまでの文章は、私ではない誰かが昔に書きました。というのは嘘だけれども。

こうやって誰にも読まれない文章を少しずつ書いている間に私はひとつの大きい決断をしたのであった。大きい決断なんて言い方をすると仰々しいが、小さい決断ではないと思う。分からないけれど。

 

どうか、

 

生活習慣はずっと良くなった。良くならざるを得なかっただけではあるが。こんなに簡単に馴染んでいくのかと思うと、不思議だ。日を跨がないと寝れないと思っていたのは、勘違いだったらしい。

 

毎日、起きて食べて行って働いて帰ってきて寝て、それの繰り返しだ。これが永遠とも思える期間続くのだと思うと、思うとなんだろう。

まだ良く分からない、簡単なことしかしてないからかもしれない。

思ったよりも世界は優しくて、複雑で、辛い。私はどうなっていくのか、まだ良く分かっていない。あんなに拒絶されていると思っていた世界に、思ったよりも溶け込んでいるような気持ちでいる。

拒絶していたのは私であって、世界はそんなことはしてなかっただけなのかもしれないけど、でもやっぱり世界は私を拒絶していたと思っていたし、今だってどこかではそう思っている。

 

今日から超大型連休が始まってしまう。何をしたら良く分からない。この休みを楽しみにしていたようで、私はこんなに休んでしまうことをどこかで恐れている。

退社する前にまだ物が全然ない、まだ私のとは思えないデスクを見て、このまま連休明けにここに来なくても何も困らないのではないかと思った。無くなって困るものはここにはない。

大型連休は意外と予定が入ってしまって、旅行は難しいことになってしまった。それは少し心残りだ。夏にカラッとした気持ちで会いに行けることを望んでいる。きっとあっちの夏は辛いだろう。

友人たちとの予定、同窓会めいた何かなどがある。同窓会めいた何かがどうして今になって開催されるのか、どういう風の吹き回しなのか。多分人にとって、ここは人生の節目なのだろう。いや分からないけど、私にとっては節目である。どうして開催しようという発想になるのか、私が根暗であるから分からないのか。とりあえず空気を読んだ風に参加をする、これで正しかったのか。

友人との予定は嬉しい。嬉しいが、やっぱりこの人はもうここには関心がないのかもしれないと思うのが、辛い。過去に縋ってしまうのは醜いのだろうか。飽きてしまいましたか、そんなこと聞けやしないけれど。私は私の周りの人を多分、それなりに愛している。私の人生の輝いていたと錯覚できる日々を守りたいんだろうか。押して駄目なら引いてみろ、が実践できない私である。

予定はぼんやりとした煙のようで、掴みどころがない、予定は未定だ。計画性など犬にあげてしまった癖に、あんまり曖昧なものが好きではなくて、何という我儘。あと、どちらかというと優柔不断なのだ、何も決められない。決められないからこんなところに居る。

 

決められないといえば、長期的な、あるいは中期的な目標はあるのかと聞かれて、何もないことを知った。本当か、本当に何もないのか。本当はあるよ、そう出来たらどれだけ良いだろうか。でもいつか変わってしまうかもしれないし、恥ずかしくて言えそうにない。話題の強引なすり替えを下手だが、良くしてしまう。だって、あなたに教えてあげられるような目標は何もない、だってそれだとここを捨てるしかないのだから。

 

今日はあまり上手くいかなかった。共感を求めて生きるのは面倒だ。どんどん優しくなくなっていく、自分の感性が厭わしい。

本は3冊買って、1冊読み終わった。連休中に何冊か読んでしまいたいけれど、結局積む方が多くなることが予想される。文字であれば何でもいいのであれば良いのに。

 

どうか正しい世界との踊り方を私に教えてくれ。

 

 

とうとう新年度が始まってしまって、変わらざるを得なくなってしまった。

 

どうもブログは100以上書いたことになるらしい。このブログは15年からやっているので4年間という風には考えられないが、そこそこ続いたのではないかと思う。

最近は読み直していないが、概ね同じことを表現を変えたり、変えなかったりしながらずっと言っている気がする。成長がない、変わらないのだ私は。

 

本は600冊いかないくらいは読んだらしい。それだけで4年間に意味があったのではないだろうか、分からないけれど。お金を使っただけかもしれない。

雑誌で本屋の特集が組まれて買ってしまった。父に好きだね、本か本屋か分からないけど、と言われて、本当にその通りだと思った。私は本が、本屋が好きらしい。昔はそんな風には考えてなかったので、変化なのだろうと思う。本は人より少し好きだったけれど、今ほど本のことを昔は考えていなかった。

 

昔好きだったサイトの短編を読む。どれも寂しくて、優しい。

好きな物を読むと心が安らぐ。もう高校生には戻れない、そう思うと切なくなるけれど。変わっていってしまった。

 

変わらないもの、変わっていくものの話が好きだ。変われない自分を何度責めたか分からないし、これからも変われない自分を責めるだろう。また、変わっていく自分も責めるのだろう。

人は変われず、変わって、人生はそれでもなお続いていく。

 

 

早く寝なくてはいけないのに、こんなものを書いています。

何も書けないし、これは何かを書いたことにはならないのだけど、結局何かを出力する、吐き出すことによって、均衡を保とうとしているのかもしれない。これで、均衡が保たれるのかは分からない。

 

ここ最近は買ってはいけないのに本を買い、買った後、汗が噴き出てくるという馬鹿みたいなことになっています。映画でクレジットカードを凍らせているシーンが脳内を過る、本は現金で買っていますが。

本屋に行かなければいいのでは、と思うのだけど、行ってしまう。そして、買ってしまう。馬鹿なのでしょうか、それは本当に馬鹿な話だと思う。

映画も相変わらず観ています。劇場に行くというのは、やっぱりとっても贅沢なことなのだろうなと思う、DVDなら十数本借りれちゃう訳で。

でもやっぱり劇場で観たい映画っていうのはあると思うし、無駄だとは思っていない。

 

何かのきっかけで本?ああ、昔は読んでいたよ、という状態にならないと良いなあと積みに積まれた本たちを見て思う。そうなってしまったら、本当にこの本たちは無駄になってしまう。積んでいる時点で、無駄なのでは?という考えもあるんですけど、売りたくない、と思っているならセーフ、セーフなんですよ、多分ね。

 

誰にも嫌われたくないなあ、好きな人とはずっと関係していきたいなあと思うのはばかげているのだと思う。独りよがりなのかもしれない。私が好きな人は大抵私のことがあまり好きではないから。

人間関係というのは更新していくものなのだろう、信じたくないけれど、否定できない。自分だってそうやってこの歳になったのだろうし。人は新陳代謝して生きていくわけで、肉体がそうやっていくならば、精神も変化して、人間関係も同じようにやっていくでしょう。

悲しくなるのは馬鹿らしくて、でもそういうようにあるのが普通なのではないかと思っている。冷たいと言われて、そう考えるのが普通だと思うようになったんだろうか。ほかの人間関係に比べて長く、親しく出来ると思うようになったからこそ、すがるようになったんだろうか。何が自然で、何か不自然なのか良く分からない。ずっと失敗し続けてきたし、これからもそうなんだろう。

ウエットであることで繋ぎとめようとすることしか、私には出来ない。何もないから。あなたにあげようという姿勢しか、私にはないのだ。都合の良い人間であることが、愛されない人間が愛してもらう方法なんじゃないだろうか。その愛に意味があるのかは知らない。

 

そうなったって、なんだって

 

苦痛を切り売りして、何かをすること。私がそれを切って売って、何になるんだろう。

消化して、昇華出来ていれば、それは何かになる。沢山の作品たち、なんて素晴らしくて、苦しくて。翻って、私はどうだろう。そんな事、出来はしないだろう。

出来の悪いポエム、あるいはこのブログでしかない。

 

何がしたいんだろう、何もしたくない、そして何もできない。

私の苦痛はあなたには分からない、そして、あなたの苦痛も私には分からない。

人間、すべてを分かり合えると思ったら御終いだ。でも、だからこそ、ことばを尽くして、我々は分かり合おうとしなくてはいけないのだろうね。

 

こんなに単純なのに、どうしてもっと単純に生きることが出来ないのだろう。

どうして何もないのに、何かを表現したがってしまうのだろう。空っぽのところからは何も出てこない。何もないのに何かをどうして、どうやって表現しようというのだろうか。そんなに私は賢くないのに。

読めない本、読んでも分からない本、観てない映画、観ても分からなかった映画。どうして好きなのに、どうしてこんなに何にもならないのだろう。

こんなファッションめいた、何もかもを私はどうして手放せないんだろう。

 

 

 

誰かの特別になりたい。

特別な私にはなれそうにないし、誰かの特別になりたかった。

どこまで言っても誰かの代替品だ、私は誰かだけのになりたいのに。

 

一生叶わないのだろう、どこで間違えてしまったんだろう。本当は間違ってなんてないのかもしれないけれど、どうしたって間違ってしまったような気持ちになってしまう。

私が変わればいいんだろうか、好いてもらえるように。

変身、変心。身も心も変えてしまえば、私のことを好いてくれますか。嘘、本当はそんなことはしたくない、ちっとも。

 

偽物でいるくらいなら、と何もかもを拒絶できる馬鹿さが、強さを私が持っていればよかったんだろうか。代替品でいるくらいなら、と言えたら、良かったのだろうか。

そんなことを考えたとしても、私は代替品であることを選んでしまう。誰も居ないよりは良い、そうどこかで思っているから。それなのに、誰かの特別になりたいだなんて、なんて浅ましいんでしょう!

 

私が相手を好きなくらい、相手も私を好いてくれたりしない。

恋人が満たしてくれる、すべてを。どちらかで良いじゃないか、そう思うけれどそれはやっぱり別物でしかない。

どうしてこんなに我儘なんだろう。でも若者は友人の方が大事らしい、流行りだ、私も流行りに乗っているのかもしれない。

一人以外への関心なんて、すべてなくなってしまえば良いのに。

 

べとべととした醜い思いで歪んでいく。こんな醜さから早く脱却したい。