とめどな
タイアップ曲ってどこまでそれに寄せるべきなんだろう。
聴いていてそれを連想させる方が良いのだろうけれど。共通性というか何かを有しているんじゃないかなあと思うんだけれどどうなのだろうね。タイアップなのだし。
でも寄せすぎると作り手の主義主張哲学的部分を殺しそうであって。
その部分を殺してしまうとファン的にはあれであって。
それに出てくる印象的な単語を繋いでいけばそれっぽくなりそれはまあ連想させるよねちゃんと。引用というかそのまま単語や諸々を使えばそれっぽくなるのは当たり前であるというのを人に指摘されてああそうであるよねと今更ながら思ったのであって。
それくらいには私は思考停止しているのだけれどタイアップって難しいね寄せ具合がと今更ながら思うのであった。
なんでか分からないけれど例示はあげられないんですけれどもなんていうんですか。空気がねそれなの、ぴったりなのみたいなそういうのがいちばん良いんだろうか。
それもこれも某アニメに使われたOPEDが読んでいた本のイメージあるいは主人公のイメージであると感じた人がいるようであったのでそれらに考えていたのだけれどいまいちまとまらなかったのであった。
某アニメも読んでいた本も同じ作者の創作物なのであってまあそういうのもあるのかなと思ったりもして。
とはいえ正直いまいちぴんとこなくて自分の感性が乏しいというかそういうことなのだろうなと思ったりしている。
いやでもそれもどれも含んで作るというのがプロというものなんでしょうね。多分。
人間は問う不思議がる生き物であって幼少期が特にその傾向が強いのであるよねと今更に考えてしまった訳である。
今だったら仕組みもわからないのに当然と思うことをきちんと不思議がれる頃があったのかもしれない訳である。
とはいえ私はそんな風に不思議がれていたかは覚えてないのだけれど。どちらかというとそういうのが少なかった方なのではなかろうか。
頭が良くなって分からないことや分からないと言うことが恥ずかしくなるのかしら。本当は私たち何も分からないのにね。
成長とかいて退化とよむ。
ほんとに大事な関係なんて少ないのだ。きっと数えられるくらいしかないのではないか。その場しのぎの関係を長く続けて錯覚しているだけなのだ。
なんてことをずるずる考えていた。
きっと意外と簡単に私たちは忘れられるのではないか。切れることに対して少しだけ寂しくなるかもしれないけれどそれが切れ方が突然であるから寂しさを覚えるだけで徐々に切れていけばそんなことも感じないのかもしれない。
思い出して懐かしくなるだけできっとそれ以上ではないのではないか。
関係というのは死ぬまでにどれだけ出来るんだろうね。
もしも大事な関係がたくさんできたらきっと良い人生がおくれたの証に近いのではないかなと思わなくもない。たくさんの関係をもっている事が是だと思っている訳ではないのだけれどないより良いのだろう多分。
でもきっと私はどこかでそれらをとても邪魔に思うのだろうな。足枷だとでも思ってしまうのだろうという気持ちもある。特に錯覚の関係なんてそうだろうね。
私は人間関係が下手くそな訳であってそれらが増えるとは思えないし増やそうともしていない多分。減らせるなら減らしたいという気持ちはないとは言わない。
まあ大事な関係なんてきっと少なくていいのだ多分だけれど。
ある方が良いのだろうけれど全部きちんと大事にする自信がないのだ。少しをきちんと大事に出来たら良いなあ。今だって私には大事に出来ていないのだから。
あまり考えるのは得意ではなくて答えが出そうにないことを考えがちだからか特に答えがないまま宙ぶらりんなものが多い。
私の会話はキャッチボールというよりも壁打ち的な部分が大きい気がしてきた。下手をすればドッヂボールと化している気がする。
でも壁打ちだってボールは返ってきている訳で一方的に打ち散らかしてる気もするのでバッティングだろうか。いやなんかどれも違っている気がする。
こうやってこれも宙ぶらりんのまま放ってしまうのだろうな。
とはいえこのブログは壁打ちであるよね。これだけは確実。