静電気

また5月がきたよ

 

何故恋をするのか、そんなことを考えるのは馬鹿げていることは分かっているのだけれど、考えずには居られない。どうして生きるのかを考えるのと似ている、どうしようもない事だと思う。何故人間を疎む姿勢を崩してしまうのか。いや疎まない方が良いのではないかと言われると、それはそうなのだけど、誰も疎まない方が生きやすいよね、多分。まあとにかく、恋は長い人生の暇潰しである。

人を好きになればなる程にあなたでなければいけなかった理由を答えられなくなる。好きになるタイプが一緒であれば尚の事、答えることが出来なくなるのではないかと思う。分からない、世の中の人間はきちんと答えれるのかもしれない、あなたでなければならない理由を。私はそういう誠実さを誠実ではないと思ってしまうタイプのややこしさを抱えているから、誠実であろうとすると、答えられないという事になってしまう。好きになる人間の傾向が定まっているという事は、そういうタイプの人間であれば、誰でも置換可能であることが浮き彫りになる。暴論だろうか。人間がいちジャンルになってしまっている、それはあなたでなければいけない理由ではない。あなたのようでなければいけない理由でしかないのではないか。
だから私はあなたでなければいけなかった理由はいつだって答えられない。でも今は前よりは、少しだけ、答えられるような気もする。気のせいかもしれないけれど。

恋は暇潰しだなんてまるでゲームをしているようで、相手に失礼なのではないかと思うけど、表現の仕方の問題であって、蔑ろにしても良いと思っている訳ではない。長い人生だから、誰か隣に居て欲しいと思うことを私は暇潰しと呼ぶだけで。隣に居て欲しいと思う事を恋だと言わずになんだと言うんだろう。誰でも良いから隣に居て欲しいのではなく、誰かが隣に居て欲しいのだ、私の求める誰かが。

死ぬまでときめいていたいけれど、やっぱりそれはいつだってくすんだ色に変わってしまうんだろうね。そのくすみを、劣化をどうやって受け止めていくのか、私はそのやり方がまだ分からない。隣に居て欲しいと願う事は恋であるけど、それはずっと隣に居て欲しいと願う事はまた違っている気がする。一過性のときめきは甘くて可愛いスイーツみたいで、心がときめき踊る。その瞬間を、一時の気迷いを永遠に食べていたいと思う。思うけれど、どうなんだろう、本当にそんなことを望んでいるんだろうか。私は恐れている、すべてが醜く朽ちていくことを。あなたが、彼が生誕したこと以外に幸せを感じた事がないという彼の声が、一緒に居るのが辛いのだという彼女の声が貼り付いて剥がれない。どこに行くのも一緒だったという仲睦まじいふたり、この人との生活ならばどんなに楽しいだろうかと夢想したこと。ずっと、という言葉は恐ろしい。

恋をするのは余りにも簡単であって、やっぱりあなたでなければいけなかった理由などその時点では一番だったからというだけでしかないのではないかと思ってしまう。でも、その時点で一番だったという事は否定しようがない、言われる側にしたら堪ったものではないけれど、でもそれは事実としてそこにあるのだ。その時点でを積み重ねて、全部を過去にして、何度だって初めてを重ねる。偽りの初めてを何度でも、違うあなたと。それでも後ろめたさはどこかにある、少なくとも私には。後ろめたく思う必要はないのだろうし、私はあなたが私以外の誰かと幸せになったらそれなりに喜べる、全くの後悔がないと言えば嘘になるけど。それは馬鹿げていることだけれど。後ろめたくなるのは、その時点を永遠に出来たら良いとは思っているから。恋をしてきたし、これらからもきっと恋をしてしまうと思っていても、永遠などないと思っているけれど、それでも魔法を信じたい気持ちだって、あるにはあるのだ。

埋めたい余白を、ひとでうまれた余白はひとでしか埋まらないのだと知る。埋めたい余白は自分勝手に作ったもので、そんなものを埋めようと躍起になっているのは馬鹿でしかないことも分かっている。いくらフィクションを信仰しても、フィクションが全能ではないことを思い知らされる。全能ではないことは元々知っていた筈なのに。それでも私のよすが、私のひかり、私の偶像。それを信仰することが、それが救済になることが、私のアイデンティティーだった。何だか間違っている気がするけれど、まあ良いでしょう、鶏が先か卵か先かみたいな話になってしまう。それに今したいのは恋の話だ、私が今ここで長々としている、これから書き続けるのは恋の話だ。


隣の芝生は青くて、青さに目が眩んだ。間違いだったのだと思う、己の立場を弁えなかった罰なのだと思う。人間の、いや己の浅はかさを疎むばかりだ。何だってよく見えるんだろう、異性と話せば嫌でも高揚するという言葉を思い出す、性欲、これはそれなんだろうか。ひとと繋がりたいという事を思う、これは物理的な意味ではない。コミュニケーションは気持ちが良い、仮初の理解でも、関心でも、私に向けられるものを私は欲した。たとえそれが言葉の通じない世界の人間であることをどこかでわかっていても。私の事を理解しないだろうという事は分かっていたし、私の事を理解したいとも思ってない事も分かっていた。私への関心など本当はないことを解っていた。でも欲望は化物で、満たせば満たされる程、飢え渇く。仮初だと分かっていても、満たされたというのが錯覚だとしても。底がない、終わりがない、地獄は頭のなかにある。
私は孤独を愛する人間を一層愛してしまう。だって彼らはこんな馬鹿げた事は考えていないだろうから、勿論各々に、頭がついている以上、そこに地獄はあるから、違う苦しみはついて回るでしょうが。これもまた青い芝生ですね。私は孤独を愛せない、孤独を愛せないせいで孤独を感じる羽目になる。愛さないから、厭うものに苦しむ事になる。でもこれは性分なのだろう、どうしてこういう魂の形なのだろう。一生こうなのだろうか、私は孤独を恐れながら生きるしかないんだろうか。


ただあいた余白は、その余白は他のひとでは完全には埋められないことも知る。分かりすぎた、分かってくれ過ぎたという事。これから先、あの人ほどに言葉が通じる人間とはきっと知り合えないだろう。それが錯覚だとしても、そういう錯覚を得られる人間とは出会えないと思っている。言葉の通じない人間と私はどこまで関係出来るのか、それは別れた後の私の関心事ではあった。

最近は話すということは同じゲームをすることではないという事を何となく感じている。私はテニスであなたは野球、あるいは私はチェスであなたはオセロ、そう言った具合だなと思うときがある。これは言葉が通じない人間とよく起きる気がする、キャッチボールにならないコミュニケーションもこれなんだと思う。

私は相手の言葉がそれなりに分かろうと出来る気がする、少なくとも分からないことを分かることが出来る気がする、思っているだけで勘違いかもしれない。でも私の言葉は分かって貰えないような気がするのだ、分かろうともして貰えない気がするのだ。きっと彼らは飛び越えてくれないだろうと思う、この隔たりを。隔たりを勝手に感じて線を引いているだけで本当は何もないのかもしれない、でも感じずには居られない、いられないのだ。考えたことがないこと、もう考えないことを、理解は出来なくても、それはそれとして許容してくれるだろうか、私にはそれが分からない。私は彼女が、彼女たちが、理解は全くできないけれど、そばに居てくれることを、嫌わないで居てくれることを、凄く素敵な事だと思うのだ。彼らはそうあってくれるのだろうか、私はまた恐れている。そして、私は本当にそうあれるだろうか、彼女たちのように。

これで私はあなたでなければならない理由に少しだけ触れた気がした、気のせいかもしれないけれど、でもあなた以外にと思える事が私にもあったのだなと思う。これから先、これ以上優しくしてくれる人は居ない、好いてくれる人は居ないというよりももっと確かなあなたである理由、と呼べることがあった事を知る。痛みでしか分からないこともある、失わないと分からない事があるのだと解る。

望みは心を砕くのだと思う。望みのためなら何だってしたいと思う、矜持を擲って、自尊心を砕いて、この身だって火にくべよう。でもそれは利益のためでしかない、望みのためでしかない。自己犠牲なんて私には似合わない、私はどこまでも利己的で、意外と計算をする、下手な計算であるのだけれど。わたしを砕いて、何にもならないなら、無意味だ。そう思った、何にもならないならこの苦痛はただの苦痛でしかない、無益な事は続けられない。一種の自傷行為だろうと思う、こういう発想が所謂メンヘラ的で辟易とする。まあこれは私側の問題であって、あちらにしたら知ったことではない事である。そんな事は全く望んでないよと言われるとそうですわねとしか言いようがなく、あちらを恨むことではない。恨むならば己しかないだろう。
私は敵わないことが好きだ、支配されている方が気楽だ。でもそれは苦痛を味わうことが好きなわけでも、踏みにじられているという感覚に陥ることを受け入れられるという訳ではない。勿論、これは主観的な気持ちであって、私の過剰な被害者意識が生じさせているだけなのだろうと思っている。思ってはいるのだけれど、そこまでしてまで得たい関係性など、存在するんだろうか。目を覚ませとずっと頭の奥で叫んでいた気がするけど、やっときちんと聞こえた気がした。

何もしていない、ただいつもより人と関係したと思う、恋愛ですらない、恋であったと思っているけれど。失恋と呼んだって私は良いと思っている。恋はバグだと改めて思う。頭がおかしくなる、心の平穏が乱れる、情緒が不安定になる。情緒はいつも不安定であろうよと思うが、極めて不快な不安定さであった。慣れないことをやって、本当ならば思う必要のない後ろめたさと、己の馬鹿さと、愚かさを感じた。ただ敗北感だけが残る。こんなことを何度も続けられる人間は強いと思う。とはいえ私も続けているのだろう、要は時間で癒えるのだ、癒えてしまうから繰り返してしまうんだろう。
寂しくて、人恋しい、構って貰えたなら嬉しい、その一時凌ぎを延々と続けられるのならば、飽きて捨てられる玩具のようでも良いと思っていた。けれどやっぱりそれは苦しい。飽きられない、魅力的な人間であれば良かったが、それは万人に対しては無理で、そして万人に対してそうでありたいかと言われると誰かにとってだけで良い。その誰かは結局、己の求める人間のことを指すのだから、救いようがないとは思う。

どうなりたかったのだろう、私は。憧れを拗らせたのではない事は分かっている。構って貰えて嬉しかった、それだけの事なのだと思う。呆れてしまうな、誰でも良かったんだろう。いや本当の意味では誰でも良い訳ではないのだけど、誰でも良かったんだと思う。とても普通に人間を好きになれてしまう事が分かった、話して楽しいという素朴な感情は私にとって大きな要素なのだろうなと思った。
人間に期待をするべきではないのだと、人間に好意を持つのは面倒なのだと。何度繰り返しても学ばないのだけど、それでも思ってしまう。そうやってしなくなるなら、良いんだけれど、学ばないお馬鹿な犬なのだ私は。そしてまたいつか人間を好きになるんだろう、なってしまうんだろう、馬鹿だと呆れながらも。だって人生は長いから、退屈しのぎをあなたとしたいのだと思ってしまう日はきっとくるんだろう、救いようがないな本当に。そんな日がきても良いし、こなければ良いとも思う。それは誰になるのか、あなたかもしれないし、誰でもないかもしれない。

これはもうボトルメールようなもので、でももしこれを読んだのだったら思うのかもしれない。どうして黙っていられないのかと、どうしてこうも苦しめるのだろうかと、心を穿つような真似ばかりするのだろうと。
書かずには居られないから書いてしまう、書かないと終われないと思う。書きたいことなど大してないのに、書かないでは居られないこともある。吐き出されたものには何の価値もないけれど、吐いているという行為には意味がある。だからこれはある程度の区切りがついたという事なのだと思う。

許されないと思っている、裏切りだと思っているのに、書いてしまう。黙っていれば分からないのに。ブログを読んで泣いて、こんなものを書いてしまう。懺悔という行為は自分勝手で、私だけが救われてしまう、どこまでも甘えているな、ごめんなさい。