静電気

また5月がきたよ

ムイ~

 

あっという間に降って湧いた大型連休は終わりを迎えようとしている。これを公開する頃には、連休は終わっている。この業種に就いている限り、有り得ない筈の日数の休日。長年勤めている先輩はもっと戸惑っているだろう。何しますか?と聞かれた時には少し笑ってしまった、一体何が出来ると言うんだろう、ぼんやりしてたら終わってしまいますよと答えた気がする。

学生時代は完全週休二日制以外は断固拒否だと思っていたが、週に二日、きちんと休ませて貰えるならば意外とやっていける。フットワークの軽い友人ならば平日の夜に食事に行けば良い、買い物だって一人は気楽だしショッピングセンターは空いていて快適だ。休日の希望は大抵通るから、友人と会いたければ希望を出せば良い。

とはいえ、この大型連休は望んだものではなく、このご時世だから発生したものであるし、今では週に二日の休日ではなく出勤であり、友人とは当分会えそうにない。

 

今もそれなりに恐れているが、心理的ストレスの峠は越えてしまった気がする。一ヶ月ほど前はそれに関する情報の全てが恐ろしくて、堪らなかった。SNSでそればかりを調べては、気を滅入らせていた。ただ段々、朝夕爆発的に増えていく人々を見ていたら、少し落ち着いてきた。何も良いことはないのだけれど、それが当たり前になってしまったのかもしれない。どこかを麻痺させているんだろうか、恐れない事は必ずしも良いこととは限らない、恐れすぎるのも勿論良くはないのだけれど。結局何事もバランスの問題と言ってしまえる。とはいえ罹患はしたくない、少なくとも今は。私は、いや我々人類は時間稼ぎをしている。友人に最終的に罹患すると思っているんだねと言われた。最後まで罹患せずに居られるならそれに越したことは勿論ないのだけれど、それは多分きっと難しいだろう。

峠は越えてしまったかもしれないが、SNSはどこもかしこもこればかりだ。政治と疫病。沢山の人が、本当にたくさんの人たちが、声を上げているのを私はぼんやりと眺めている。目を逸らしたい、見ていたくない、考えたくない、そんな自分を恥ずかしく思う。でも私は何もしようとしていない、苦しいなと思うばかりだ。情報は取捨選択すべきだという事を思う。ミュート機能を有効活用している人間が散見される。ぼんやりしていても流れてくる情報、何となく知った気になれる事々、積極的な検索による憂鬱。未来は暗いと嘯いていたが、どうも現実になってしまった。どこまでも身勝手な私は自分の事だけを憂いていたかったと思ってしまう。

 

この大型連休はとにかく内部を覗き込んでいた。たったひとりの人間への妄執に震えていた、ずっと。我ながら、イカれているとしか言えない。恋と呼ぶにはあまりにもおぞましい、もっとキラキラと甘い、柔らかなものだけを恋と呼びたい。私のこれは執着、妄執である。とはいえ、柔らかな感情だけを恋と呼ばれても、もっと醜い感情だってそれをすれば湧くだろう!嘘吐きも大概にしろ!と怒る自分も見える、難儀だな。それは置いておくにしても、あまりにもねじくれて、歪んで、ドロドロに煮詰まってしまったこの感情を恋と呼ぶのはあまりにも苦しい。結局、私は恋に恋をしたままなのだろう、だからこんな醜さは、醜悪さは認められない。これを恋と呼ばないでほしい。

 

この妄執から早く脱却したい。ゆっくりと時間をかけて諦めていけば良い、人間の好意の賞味期限は意外と長いものだ、嫌いになろうと思って容易に嫌いになれる好意は本当に好意だろうか。でもそろそろ私は限界なのだ。もう既に気持ちの上では長期戦、最近では動作異常が目に余る。細かいことを言えば、何か月か前に吹っ切れたという話ではなかったかと思うだろうが、私の精神、情緒は恐るべき非連続性を具えているのでそこら辺りは大目に見て欲しい。私の言うことが30秒後に変わっていても私は驚かない、勿論疎ましくは思うが。

 

私は私のなりたいわたしになりたい。こうやってどんどんかけ離れていく。こんなに他者でべとべとになって、気持ちが悪くて堪らない。他者を信仰すべきではない、そこら辺にいる他者を。私が信仰すべきはフィクションだけだ。たった一人の他人への欲求が私のなりたいわたしを阻害する。私の人生に最後まで一緒にいるのはわたしで、お前ではない、お前ではないのだから、私はわたしを優先すべきなのだ。私が邪魔なのではない、お前が邪魔なのだ。どいつもこいつも私の人生には不要なのである。全員を蹴散らさなくてはいけない。死にたいのではない、お前が死ねば良いのだ。分かっている、私が死んだ方が話は早い、そんなことは中学生の時分から知っている。阿呆な物言いだが、他者は思い通りにはならない、自分でさえ思い通りにならないのに、違う頭を持った個体を思い通りに動かすことなんて、私には出来っこない。それに、他者を排除する方法でやるならば、私はどれだけの他人を殺めれば気が済むんだろう。笑ってしまいそうだ、そう考えてしまう自分に。そう思うと私が、私ひとりで済むのだから、安いものだよな。まあだから、私が死んだ方が楽だというのは重々承知な上で、お前が死ねば良いのだという強い気持ちでいたいんだよ。

 

私は自由で、幸せになる権利も不幸せになる権利もある。自分を縛らないでいることも、雁字搦めにすることも。型にはまらない事に苦しむのに疲れて、型にはまらないでいるようにしようとした。でも、それもどうやら失敗してしまったらしい。やはり習慣と継続だけが祈りなのかもしれない、規律は私を助けてくれるのかもしれない。だったら、私はまたわたしの為の鋳型を用意しよう、前よりもうまくやれるように、同じ轍をまたきっと踏むことになるのだろうけれど、前よりも少しでも善く在れるように。私は私の為のわたしを愛そう、誰よりも一緒に居てくれるわたしを愛するしかない。自分だけに興味を持てば良い、都合の良い他人を頭のなかに作り上げるな、それは紛い物だ。同じ紛い物なら、都合の良いわたしを作り上げよう、私にとって都合の良いわたしを、それに成り代われば良い。

 

頭の中の轟音が鳴り止まない、うるさい、煩わしい。早く静かなところへ行きたいのに。私のなかに何人かのわたしがいて、各々が主張をしていて、それを全部口から出していると矛盾だらけになっていく。私はどれも正しいとも間違っているとも言えない、言ってあげられない。強硬派のわたしは嫌われましょう、怖がられましょう、中指を立てて生きていきましょう、彼らは邪魔なのですからと言うし、穏健派のわたしはゆるゆると諦めていきましょう、いきなり冷たくなるのは差し障りがありますよ、穏やかに生きていきましょう、人はひとりでは生きられませんからと言う。そうだねえと私は言う。他のわたしがどちらも出来ないから、苦しんでいるんでしょう、馬鹿なのですかと言う。それもそうだと私は言う。

 

低体温そうな女に、不機嫌な低体温の生き物になりたい。私が諦めきれないのは他者ではなく、私だけ、自己だけにしたいのだ。