静電気

また5月がきたよ

あなたによせて

輝かしい頃の記憶を掘り起こすのは恥ずかしくて、残酷な行為だ。もう二度とは戻らないものはどうして馬鹿みたいに綺麗なんだろう。でも忘れたくないから、こうして記すんだろう、記してしまうんだろう、馬鹿みたいだ。

私はわたしに興味がなさそうなひとが好きだった、とはいえ本当に無関心だったら苦しいだろうけど。その少ないであろう他者への興味のリソースを少しでも割いてくれたなら、それはこの上なく喜ばしいことでその関心を得ることが出来たならと思っていた。あなたは私が自殺しても泣かないと思ったように、私は私が居なくなっても、あなたは大丈夫だろうと思った。本当の意味で私を必要とすることはないと、そう思っていた。

与えてくれたものに対して応えられてないとは思っている、それだけが申し訳なくて仕方がない。こんなに支えてもらったのに、何もできなかった、何もしなかった。ありとあらゆるものを貰って、傷だけつけてしまったような、そんな気さえしている。返済は出来ないんだろうと思う、返してほしいなんて、優しいから言わないだろうけど。

他人から言われるようなことを私はあなたに思ったことがなかった、私はあなたが優しいことを誰よりも知っていたし、他人にどう言われようとどうでも良かった。その度にきっとこれ以上に同じだと思える人は他にいないのだろうと思った。なんでそれなのに別れたいと思ってしまったのか、よく分からない、よく分からないと言って怒らせたことを思い出す。私があなたを傷つけた回数の方が遥かに多いだろうと思う、あなたの優しさに甘えてばかりだった。あなたの庇護のもとにいるのがいちばん幸せなのではないかと思うのに、どうしてうまくいかなかったんだろう。変わっていくことは疎ましい、薄れていくことは悲しい、あのままでいられたら良かったと思わなかったといえば、嘘になる。

読んだ文章たちは苦しくて、涙が止まらなかった、思った以上に悲しくて、自分勝手さに辟易した。悲しいからやっぱりこのままでと言おうと思えば言えるけれど、それはただの誤魔化しで、あなたはそれでも良いというかもしれないけれど、結局のところ、今か後かでしかない気がして、もうこれ以外の前向きな選択肢は存在しない気がするのだ。

なんて自分勝手なんだろう、馬鹿みたいで涙が出てくる、こんな駄目な私をどこまでも愛してくれた、幸せにしてくれたことについて感謝してもしきれないのだ。あなたがいなければ、どうして私は生きていけたろうか、私はあなたが居て本当に良かった、あなたに生かされたと本当に思っているのだ。あなたの言葉に、何度生かされただろうか、きっとこの後もそうだろう、くれた言葉で生きていくと思う。それなのにどうしてと思う、でも思わないで欲しい、お互い苦しいだけだから。

どんな形になるか分からないけれど、これをひとつの区切りとしましょう。謝罪することしかないけれど、謝罪をするのはヒロイック過ぎるから割愛します、感謝することもいっぱいあって、ひとつひとつ書いていくとどうなるんでしょう、大変なことになる、なので割愛します。
ごめんなさい、本当にありがとう。
そして、生きて下さい、これは呪いです。私は自殺されたら泣いてしまうので。あなたの求めたものには何一つ応えられそうになくて、申し訳がないな。

日曜日に、

 

今日まで書き溜めていた言葉たち、その2です、こうやって吐き出して、何になるのか分からないけれど、書き続けている、続けていないとどうにかなってしまいそうだから、たとえ無意味だと思っていたとしても。

 

どうせ気なんてすぐに変わってしまうのだけど、書き記しておこう。
不機嫌さを厭わずに、愛想悪いまま生きていけば良い、そのままで良いじゃないか、ただ他人を攻撃しないし、極力他人のことで不機嫌になるべきではない。不機嫌であるだけで誰かが不利益を被っているかもしれないが、他人に不利益を生じさせない範囲で私は自分勝手に不機嫌になれば良い、ご機嫌であることが大事だなんて誰が決めたんだろう、私が決めていた、その方が生きやすそうに見えたからだ。とはいえ、不機嫌さで他人に迷惑はかけないようにしたい、いやもう既にかけているだろうけど。
どうせ自分以上にはなれない、自分以上になりたいけど、善き人生になるようなこの無意味な呪いをやめたくないけれど、すり減っていくことはやめたい。私はわたしをすり減らすことができる、きっと誰より上手にそれが出来る。私には欠けた穏やかさを求めて、穏やかさから離れていく。私が求める意味での穏やかさはきっと身に付かない、今のところは、だとするならばとりあえず目先の穏やかさを得よう、心の穏やかさを。無い物ねだりをやめよう、いつだって隣の芝生は青い、どれだけ他人の芝生の青さをここで羨んできただろう、根底に他者への羨望が、妬みが横たわっているけれど、まあ私の芝生は仮想的なもので、一個人を意図したものではないから、妬みはあまりない気がする、あるだろうか、妬み嫉みは汚いから、嫌だな。そして、淡白さは何とかならないだろうか、無理かな。

歳はとりたくないが、勝手にとってしまう、それなのに大人には簡単にはなれず、人生は難しい。子供のまま、大人になりたいが、それもまた難しい。子供のままの大人は良いと思う、子供っぽいということではない、頭の柔らかさと視力の問題だ、世界を見る視力。歳はとりたくないけれど、やはり加齢による穏やかさというものは存在しているようで、それは欲しい。穏やかになれないけれど、まあ加齢によるものは何とか得られないだろうか、無理ですかね、まあ加齢によるものについては期待するしかないので、期待するに留めておこう。

私はわたしの不機嫌さを愛するしかない、生きづらくも息はしやすいように。私の好きな書き手は言っていた、楽に生きるには工夫がいるのだと、私は工夫を施したい、私が楽に生きれるように、いつだってそう、私は私のより善き生のことを考えている。同じ人はこうとも言った、生きるのが楽しくないこの世界で自ら死ぬ勇気がないなら自ら楽しく生きねば損である、と。いつだってそう思うのは難しい、今すぐ消えてしまいたいと思うし、楽しいことがないことばかりを恨んで、自分を変えようとしなかったりする、それでも、本当はそう思いたいんだと思う。

 

私以外がいるのだから私以外がよろしくしてあげたら良い、冷たいだろうか、排他的だと言われた、多分冷たいんだろう。自分の最初は棚にあげて、良くないところばかり目についてしまう、そしてやっぱり特別関わり合いになりたくない、面倒くさい。

結局のところ、冷たいのだ、でも別にそれで良いと思っている、冷たいのはいつも通りだろう、とにかく迷惑さえかけなければ。迷惑をかけるつもりもかけているつもりもない、今のところは。分からない、こういう発想自体が良くなくて、迷惑なのかもしれない。私に極力関わらないでくれというオーラを発散させているかもしれないしな、私は態度に出やすいから、それは十分に迷惑なことではないだろうか。

というか私はそういう事で辞めたのではなかったか、嫌なことは他人にはしないというのは大事なことではないのか。とは言っても、積極的な参与が嫌なだけであって、手を貸す気がない訳では全くない。聞かれたら、自分ができる最大限で答えようという気持ちはある、聞かれたらだが。
その人がというよりも教えるという行為自体が苦手だ、苦手ではない、嫌いなのだ、正直なところ。自信がないから、要らぬ予防線を張りに張ってしまう。だって今後に繋がるし、最初はやっぱり大事だよ、土台になるし、私の下手な指導で今後大変なことになる可能性だってなくもない、こういう言い訳を積み重ねてしまう。いくつもの予防線を張るのは性めいているので、今に始まったことでもないのだけども。

あと、行動を監視されるのはひどく居心地が悪い、見られているとぎこちなくなってしまう、視線は少し怖い、だから他人にやるのもちょっと苦手なのだ。最初は何するか分からないし、見守ってあげるべきなのも分かっているし、私はそうやって見守ってもらったはずなのだけど、そして他人は大して気にしてないかもしれないのだけど。
まあ、私の愛想が悪かろうと別に気にしなくても良いだろう、別に一緒の場にいるだけなのだし、そして嫌われたところで大した事にもならないだろう。皆に対してもこう思えたら良かったのだけどな。

などと考えていたのだけれど、もう考える必要がなくなってしまった、その人は私たちの目の前から消えてしまったので。ひととは何て難しいんだろう、改めてそう思わされた、理解の外側にひとがたっているということはままあることで、時々そのことを忘れてしまうし、私も誰かにとってはそこにたっている人かもしれない。人は言った、自分も辞めたから人の理由に対して何も言えないのだと、そうだった、そうだった筈なのに、私の理由はきっと誰にも理解されないと思っていたのに、どこかで理解してもらえることを望んでいたのに、どこまでも人は残酷になれるものだな、良くないことだ。

 

人間に対しては概ね加点式な気がする、多分、最初が好きじゃないから。好きじゃないか、嫌いか、好きか、普通の4種類な気がする、大抵の人間はそうだろうな、知らないけども。無関心は少ない、普通に属するのかもしれないけど大抵何かしら思っている気がする、何かしらを。本当は無関心が望ましい、嫌いより無関心の方がよっぽどである、ということを分かった上で言っている、分かった上で他人への無関心を望んでいる。

あるいは、無関心になれないなら、いっそのこと嫌いになって、関わらないで済みたいという気持ちもある、嫌われるより前に嫌いたい、飽きられるより前に飽きたい、傷付かずに済む、私が。私はわたしのことしか考えていない。高校生の頃そうだったことを思い出す、あの頃は本当に酷かった、恥ずかしい、他人の痛みにはどこまでも鈍感だ。でも今もどこかに残っている気持ちで、時々そいつは顔を出してくる、多分義務教育期間の人間関係に起因する習性なんだろうというぼんやりした言い訳がある、言い訳でしかない。過去に何があったのと言われるが、そういう事たちだよというしかない、勿論言わないけど。
自分がいちばん下だと思っている割に、他人への要求が高いのも最初が好きじゃない理由なのかもしれない、悪い癖だ、とはいえ下だと思っているからこそなのかもしれない。私でさえ出来ているのに、という事なのかもしれない、とにかく他人のことは馬鹿にしたくないのだ、他人というか個人のことを。自分がいちばん最底辺だと思っている割に、何故人間はという気持ちには良くなる、なってしまう。良くない悪い癖だが仕方がない、心が狭くて冷たいから、これもまた悪い癖、言い訳にすらならないよ。

結局、私の馬鹿にしたくないという意識は円滑なコミュニケーションの為のものであって、無関係な他人には働かないのかもしれない、まあ円滑なコミュニケーションを行えた試しがないが。馬鹿にした相手とちゃんとコミュニケーションをとれるかというと、私には多分難しくて、だから馬鹿にしたくないのだ、和は大事だ、私がいうと馬鹿にしているようだが。

 

 

あなたの言葉をまた欲している、欲しているからデータに金銭を払う、払った報酬はあなたの言葉だ。
言葉はこんなに世界に溢れているのに、あなたの書いた言葉に価値を見出だして、報酬を払おうと考えられる自分のことが嫌いではない。私のように考える人間が一定数いることは分かっている、別にこれは私だけが価値に気が付いているといった意味の言葉ではない。
職業的でも趣味的でも言葉を扱う人間に対して惜しみなく、その言葉に価値を見出だして、報酬を払えることは私にとってとても意味のある事だ。
言葉で人生を燃やし尽くせる人がいるのだと、感じられることは、至上の喜びといっても良い。自分も扱っているものを他者が扱った時に同じものだと思えないことは、苦しくも幸せだ。いつだって思う、私もおなじ言葉を扱っている筈なのに、どうしてこうも違うのだろうかと、どうして私はああはなれないのだろうかと。暗い気持ちになる反面、朗らかな喜びがある、あんなにも美しく在るものなのかと。まだ捨てたものじゃないな、と思える、すべてのことが。
世界を書き尽くすことは出来ない、私とあなたとでは世界の見え方が違っているから。私の世界を書き溢して、私の世界にはないものを書き連ねていく。私とあなたの世界は同じではないから、私たちの数だけ世界はあるから、書き尽くすことは出来ない。そして、言葉は万能ではないから、私が世界を記述しようとしても、正確に記述することは出来ない、どうしても零れ落ちてしまう、私の世界なのに、私は正確に写しとることが出来ない。正確に写しとることが出来ない上に、あなたに正しく私の世界を伝えることは不可能だ。正確に写しとることが出来なかった時点で正しく伝えることは出来ないし、それ以上に、写しとったそれを私が書いたことの通りにあなたは受け取れない、受け取ることは出来ない。
どちらが悪いとか、そういうことではない、もし責めるならば私の不出来さだが、どれだけ努力しても、正確に思念を言葉に写しとることは難しい、転写のようにはいかない。それでも言葉を使うしかない、言葉は十全には機能しない、私の想いを、あなたの考えを、十二分に伝えることは出来ない、出来ないことを分かった上で、絶望的なそれを理解しながら、それでも伝えようと足掻くことはきっと無駄ではないのだ、それを私は愛と呼びたい。
前に書いたことと違っている、違っているけれど、こういう前向きな気分の時もあるのだ、言葉に生かされていると感じている時は、こういう気持ちになれる、なれてしまう、諦めたような顔をして、何も諦められていない。諦念じみて生きたいのに、難しいな、足掻くことは惨めなのに、醜いのに、なんで煌めきを感じてしまうんだろう、複雑怪奇にやっていくしかないんだろう、私の生き方はきっとそれしかないのだ、本当のところ。

 

早あまり推敲する気が出ない、出して満足してしまう、行儀が悪いな。だって、すぐに考えていることは変わってしまう、私はそういう所があって鮮度が命だ、明日にはすべてがひっくり返ってしまっているかもしれない。とはいえ、表現の仕方は荒くて恥ずかしくて、何とか少しでもましな形にしてから公開したい気持ちもなくはないのだ、だから毎回読み直して、少し形を整える、整っていると勘違いしているだけで他人から見たらどうかは分からない、個人的な感覚としては整えているのだ。

まあ、こうやってダラダラと書こうと思えば、何となく出力できてしまうのだけれど、とにかく今は寝てしまおう、これではほとんど朝みたいなものだ、今日もまた現実と向き合わなくてはいけないのに、いつまでもこうやって現実逃避をしている、馬鹿みたいだ。寒い部屋で体育座りのせいか少し痺れた左足のことを思いながら、異常に冷えていると感じる左手とそれよりはまともな温度であるような右手を使って、この文字をうち続けているが、それも終わりにしましょう。

それでは、素敵な日曜日を、みなさま、どうか。

 

尖の

 

何かしら毎日メモ帳に何とも言えない言葉たちは蓄積している、一応の適当な推敲を経て、ここに投稿することになる、この時の適当というのは雑なという意味である。以下のものは11月の私の言葉たちになる、ただ推敲時にまあまあ加筆されるので、すべてが過去の言葉という訳ではない、とはいえ、公開した時点ですべての言葉は過去になるのだが。無意味な、でも私に必要な馬鹿げた言葉たち。

 

必要最低限のものはリュックひとつに収まる、旅行鞄は生活するのに何が必要か、残酷なまでにはっきりわかるという言葉がぐるぐると頭をまわり続ける。
果たして私はどうだろうか、考えるまでもない。もちろん、答えは否だ、収まるわけがない。私の荷物は常に重たい、それは私に安心感を与えてくれるが、やはり荷物なんてものは軽い方が良いに決まっている、分かっているのだそんなことは。とはいえ、少ない荷物はかえって不安になるというように語る適当に開いた本にあった人間の言葉にほっとしたりもする、いつも通り忙しいな。
ミニマルさに、身軽さにはいつだって憧れている、私のなかで軽やかさは穏やかさと何故か繋がっている。重たいものは陰湿さと繋がってしまう、どうしてだろうか、分からない。ミニマルさは思考停止に繋がるといったような言葉もどこかで見た気もするが、それはそれで穏やかさになる気がする、思考停止はしたくないと思っているけれど、思考は私たちを幸せにする訳ではない、更なる地獄を見せてくれる可能性もある、でも停止しているという状態にいるよりはずっとマシだろうなという気持ちにもなる、明日にはどう考えているのか知らないけれど。
とにかく人間最後に持っていけるものはそうない、ものだけではなく、人間関係もそうだろう、自分の身辺整理を落ち着いたらしようという人間の言葉にああ、そうだなと思う、別にその人も、私もすぐに死んでしまうわけではないけれど。

 

上品に中指をたてて生きる方法を、穏やかに苛烈に生きる術を、きっと求めている、この分断を愛したいのに、どうしてこんなに難しいんだろう。こう見えて、完璧主義なんだろうか、私に完璧さなんてどこにもない、どこもかしこも欠けているか過剰かだ、ある意味完璧かもしれない、不完全であるという意味での完璧さ、何を言っているのか分からないけれど。愛想よくしようとせず、輪を広げようとせず、大事なものだけをひたすらに愛していられたら、穏やかに生きられるだろうか。もうすべてに疲れてしまう、何も考えずに居たい、要らないものをすべて捨ててしまいたい、要らないものの判断さえ出来ずにいるのに。
私がわたしのまま、自然にそのままに生きることを認めたい。鋳型に悩む日々は精神を緩やかにすり減らす、どうせ叶いもしない願望には疲れてしまう。分かっている、鋳型を定めたところでどうしたってはみ出してしまう事を、そしてはみ出していることを呪う事も、私はわたしのことが分からないけれど、それくらいならばわかる。それなのにどうしても鋳型を望む、切望している、更に自分を嫌悪することになることが分かっていたとしても。


また12月が来る、何もできなかった11月を置いていく、置いていけるのだろうか、掴まれた足首、重たい頭陀袋のような11月を引き摺って歩くことになるんだろうか。先に進んでも何もない、本当に先に進んでいるのかもわからない、ただ同じところを回り続けているだけなのかもしれない。同じ事を繰り返す、繰り返して、繰り返して、どこにいけるんだろう、繰り返しの先にどこかにいけるだろうか、こんなにどこかにいきたいのにずっと同じ景色だ。

 

文章でさえ、いや元々私の文章は支離滅裂だという強い自負があるのだけれど、文章も酷く感情的になってしまう、なけなしの私の理性はどこへいったんだろう、あなたが見つけてくれた理性は。最近の私の道標のひとつはあなたがくれた言葉だ、ブログでは理性的だといってくれたことを、静かな文章だといってくれたことを。そして、複雑怪奇さを魅力だといってくれたことを見返す。見返すことで私は呼吸ができる、言葉には確かに力があるよ、こんなに呼吸ができるようになるのに、どうしてこうなんだろうな。

 

メモ代わりのアカウントを見返すと、今と全く同じようなことを言っていて、笑ってしまう。この笑いは何の笑いだろうか、冷笑だろうか、苦笑だろうか、何の笑いでも良いのだけどあまりにも同じところで回っていて、笑えてしまう。本当にお馬鹿な犬みたいだ、あんまりかわいくて涙が出そうね。

 

ひとをわたしの内側に入れないということを考える、こういうことだなと紙に触れる、彼女になりたい、残酷なのだろうか、馬鹿みたいだろうか、こんなことを願うのは。また無謀にも彼女たちに憧れてしまう、夢見がちだと笑うしかない。

穏やかであることは過不足がないこと、静かで落ち着いた無彩色であること。そんな風に私もなれるだろうか、こんなにも過剰と欠損を抱えて、それらを愛したいとも思うのに、やっぱり過不足のなさを求めてしまう。バランスの取れた、本当の完璧さ。

なかが複雑ならそとは単純な方が良い、多くのものを無謀にも、傲慢にも、コントロールしたいと願う。生活を整えて、見せかけの精神も整えたい、私が出来るかもしれないと勘違いできる範囲はそこまでだ。自力では組み立てられない生活、見せかけの精神、上っ面のものたち、それでさえもうまくゆかないことばかりだ、疎ましい。バランスをとるのが下手くそだ、そんなことはとうの昔に知っていた筈なのだけど。

快適じゃないこと、不穏であること、無彩色で落ち着いていること、分かり合えないと感じること。求めていたこととは真逆のことを今はどこかで求めている気がする。全部が引き裂かれていく、どこへいこうというんだろう、それはここではないどこかで、でもそんなところへいけるとも本当は思えない。

 

普段は絶対に買わない、食べないヨーグルトなどを買ってしまう、どうしてしまったんだろう。甘いものを食べるよりは良いかと思ったのだけど、何故、どうして。安定性を欠いている、ある意味では普段通りだけれど、普段生じない欲求には驚いてしまう、自分ことなのに。いや、自分のことだからこそ驚いてしまうのか。

 

不安定さを女性らしさと言い換える善良さに目眩がしてしまう、それが本当に善良さなのか分からないけれど、善良だと思ってしまった。不健康かもしれない、本当は。感動しきったような声を出してしまう、素敵ですねと、羨ましいと。そうだろうか、本当に、そんな風に言われたら、私はどう感じるのだろうか。きっと安心する、たぶん私は安心するのだろう、現に私はそういう甘やかしを受けていると思っている。あまりこういう物言いは好きではないけれど、私の精神のある種の不健康さを受け止めてくれているから、一緒だと思う。甘やかされることは幸福で、恥ずかしくて、恐ろしいことだな、もっと甘えずに生きたいのに、どうしたってうまくいかない。安心してしまうことは恥ずかしいことだ、恐ろしいことだよ。

 

もしあなたがわたしのことを理解したいと一瞬でも思ってしまったのなら、彼女の作品を読んでみて、と言えたら良い。別に彼女の作品にはわたしのような人は出てこないし、わたしのことだと思ったこともないし、まあそれはどの作品に対しても思ったことがないので、いちばん近しいであろう見知った感情が書かれているという表現に置き換えた方が本心に近いけれど、だとしても置き換えたところで、当てはまることでもない。でも、それでも私は彼女の作品を読んでみてと言いたい、わたしではないけれど私が求めるわたしに近いなにかがそこにはあるから。
彼女の作品では夫婦関係やそれに近い関係の男女の話が特に好きだ、その方が孤独さを感じられるから。結局どこまでいっても、たとえどんなに愛せたとしても、ふたりでいてもひとりなのだと思うから、忘れてしまう、私たち人間はどんなに一緒にいたとしても、ひとりとひとりでしかない。

 

がーっと喋ったり、泣いたり殴ったりしないことをつめたいタイプだと称すならば、私はどこまでもつめたくなりたいと願う。

 

ぼんやりした頭で台所の床に体育座りをしている、眠いのに寝たくない、明日も仕事なのにこんなのは馬鹿げている。帰ってきてから、本ばかり読んでいる気がする、悲しくなる、読んだ本を、読んだ彼女の本を読み返している。再読をすると心が和らぐのは、精神的に不安定な時だ、再読欲求は普段は殆どないから。一度読んだ本ははじめて読む本よりは安全だ、精神にとって。

 

眠って、眠って、眠る。眠りがすべてを押し流して、眠っている間は真空だ。

 

音楽を聴いたあとの広告があんまり不愉快だから、不愉快だわと思って、そう思ったことに笑ってしまう。不愉快ですねと書かれた文面を思い出す、率直さが明るくて、恐ろしいけど親しみが持ててしまう。一緒に居たいとは思わないけれど。

 

車中からみえた大学構内の暴力的なまでの黄色、銀杏のあの黄色に打ちのめされてしまう。あの黄色の暴力的な色と香り、人間の足取りの無神経さと過剰な自意識を疎んでいた日々が雪崩を起こして、頭のうちを白く塗りあげる。戻りたいと思う気持ちを隠しておくことは出来ない。

 

気を許すことは恐ろしい、向こう見ずなことだと思う。私はどちらかというと簡単に気を許す方だと思っているのだけれど。それでもそう思う、だからこそそう思うのかもしれない、気を許さないでいられたらいいのに。

 

小さい鞄はデート用云々という言葉を不意に思い出す、依存した外出という言葉も。冗談じゃない、そいつが突然崖に突き落とすようなことをしたらどうするんだろう、身を守るのは自分だけなのに、そんな真似は到底出来ないと思ったが、甘ったれた私は大抵が依存的な外出であることを思う。私の鞄は大抵が大きく、重たく、邪魔っ気である。重みは安心感だ、人が重いものは持ちたくないというのを聞くたびに憧れと恐れを感じる、軽やかであることへの憧憬と畏怖が私にのしかかってくる。

 

小説と音楽とカフェイン、ニコチン、それだけで大丈夫、トベると思う、トベるなんて下品だけど思うのだけれど、そうだから仕方がない、これさえあればと労働前は思う、でも終わったあとはご存じの通りだ。あらゆるものを欲している、貪欲で強欲な浅ましい本性、下品な品性。無欲な人間になりたい、欲がないのは美しい、軽やかになりたい、こんなに重たくては生きてゆけないと思う。

 

常に不機嫌に生きていけば、今日は機嫌悪いのかなど言われずに済むのだろうか、いつもテンションが低いところにいれば、予防線になるよな、と思ってしまっているところもある。でも穏やかな人間は常時フラットで、私のフラットは不機嫌なのだ、というのはちょっと言葉遊びが過ぎるよなと思う。本末転倒な感じがする、何というか上手く言えない。ここまできたら一度考えるのを辞めてしまっても良いのではないかと思うが、やっぱり自分のことが嫌いな癖に好きなのだろうな、何とかしたくて、自分を好きになりたくて、もがくしかないと思ってしまう。前よりは、前ってそれはいつくらい前なんだという位の前よりは、前進してるような気がするのだ、中学生の頃よりは、一過性のものだと言われたあの頃よりは。

 

ことばはすべてを伝えきれないから我々は永遠に完全な理解を得ることはない、世界はかならず私やあなたを介して知覚されるので同じように触れることは出来ない、それでも我々は分かり合おうと、言葉を尽くして、手を伸ばすしかないのだと思う。

思うのに、どこかできっと、どうしようもなく我々は分かり合うことなんて出来ないのだから言葉を尽くしたって、と思う。分かり合うことなんて出来ないのだから、我々に唯一残されたことは言葉を尽くすことだ、と思うべきなんだろうか。

 

 

書くということが私の救いになるのでしょうか、そんなことが私の身にも起こるのでしょうか。あの一件からずっと書いてばかりいる気がします。スマートフォンのメモ帳にはことばが積み重なっていく、それをこのブログに落とし込んでいく、この作業が私の救いになるのでしょうか。それはきっと、これから先に分かることなのでしょう、何だって気が付くのは後になってからでしかないからです。

未来の私、どう思いますか、あなたの救いにこれはなったのでしょうか。未来の私、どう考えていますか、あなたはこれまでのわたしの事を。未来の私、どうですか、あなたは答えを見つけられましたか。

とはいえ、私は未来の私の答えを知ることは出来る訳もないので、都合の良いように、絶望しない程度の都合の良い未来を、都合の良い答えを私に吹聴しましょう、今はそうやって生きてゆきましょう。

 

私は傷口、膿んだ傷口、目が覚める前にそんなことと神経についての記述を思い出していた気がする。11月になってしまった、冬が来る。毎月のように私はわたしを定めて、粛々と生きようと思っているのに上手くいかない。勿論、今月もそのように生きようと思っている、生きたいと思っている。淡々と穏やかな精神を希求している。ただ思うのだ、穏やかで冷たくない人間になりたいけれど、壁で自分を守って、凍りつかせてしまいたいとも。冷たく、閉ざされた冬のなかで生きたい。また自己が引き裂かれて、訳が分からない。指の間から何かが零れ落ちて、取り返しがつかないような心地になっている。

 

信じられない感性かもしれないが、ストーリーが面白いとか良いとかそこまで思えなかったとしても、どのように表現されているかだけで何とかなってしまう人間がいる、それが私だ。本当に苦痛なストーリーと今だかつでないくらいに好ましいと思う文章の組み合わせには今のところ出会ったことがないから、本当に何とかなるかは分からない。本当に苦痛なストーリーというのはどういうものなのだろうか、まずこの時点で思い付かない、ここまでくると思考実験でしかない。とにかく、ストーリーよりも文章がすべてを乗り越えてくる事が私においてはままあるのだ。他の人にもあるのではないかと思っているけれど、そういう話は大抵馬鹿にされるので真面目に話すべきでないだろうし、黙っておく方が良い。私のいう文章が好きだという感想は馬鹿に見えるだろうなという思いはある、だって客観的に考えて根拠が全く示されていないし、馬鹿っぽいもんね。

 

左手の薬指、左腕の肘から上の一部がビリビリと痺れる、触るとなんとも気持ちの悪い痺れ、時々起こるこれは一体何なのだろう。精神的なものなのか肉体的な問題なのか。その痺れが現れる度に検索しては、首を傾げてしまう。

いちばん安らぐ人間たちといても、あの漫画のあの人のように、ひとりになりたいと思ってしまった、不具合、不具合が生じている、バグを早く取り除かなければと思うのに、ひとりで煙草を吸ったりしてしまう。出来た穴は同じものでしか埋められない、どう足掻いても同じものは用意出来ないから、別のもので埋めるしかない。

 

本を読むひとのブログとTwitterを眺めている、死ぬまでに読まなければと思うものが増えていく。本は日用品で気分に合わせて読むという気楽な娯楽で良いと思うのだけれど、やっぱり読まなければならないわよこういうのもといった己への強制めいた何かもある。格好つけているようで恥ずかしくもあるが、格好つけたって良いのだ、多分。それにだってその格好付けも無意味ではない、多分、読み終わればだけど。読みたいなって言っているだけでは無駄である。いつもそれの繰り返しで、げんなりするのだけれど、まあ仕方ないことではあるよな。

 

陽が落ちるのが早い、秋を越えて冬になろうとしているのだから当たり前なのだけど。この仕事をしていると1年が早いのだと上司が言った、高卒入社の手の荒れた人が、紙をずっと扱ってきたのだと思わせる手をした上司が言っていた。
休みでなければ夕方のない生活だ、陽が高い頃に家を出て、夜が世界を覆ってから家に戻る。だから夕方は欠ける、朝起きるのが遅いから朝も欠ける、私の時間は昼と夜だけになる。別にその事を辛いと思ったことはない、朝は苦手だから、とはいえ朝が苦手なのではなく、寝起きが良くないだけな気もする。夕暮れは好きだ、大抵の人間は夕暮れを好んでいる気がする、写真とか撮ってる人、良く見るし。切なくなる空の色、最も美しい空は夕暮れだと思う、とはいえ青くて吃驚する位青い空も美しいと思う、最もという言葉の意味を私は分かっているのだろうか、まあこちらは夕暮れと違って、あまり見ることが出来ないけれど、そういう珍しさも加算されているのかもしれない。空の色は早朝も美しいだろうが、個人的には視覚よりも聴覚のイメージが強い、新聞配達の音、鳥の声。あとは切なさよりも罪悪感がある、眠れなかったことへの。私の早朝は早起きではなく、遅寝と結び付いている。

 

読むことで救われる人よりも書くことで救われる人の方が多分好きなのだろう、好きな人たちは大抵が書いて救われている気がするのだ。とはいえ読むことでも書くことでも救われるような人が好きなだけな気がする、そういう人は結構何かを書いているように思われる。気がするというのは書き言葉の癖だ、普段もそうだろうか、分からない。でも思考の癖としてあるから、吐き出す言葉もそうかもしれない。勘違いを、思い込みを繰り返して、騙し誤魔化し、日々を積み重ねている。私もある意味で書くことで救われているのかもしれない、こうやって書かずには居られないということはそういう事なのかもしれないな。私にも書かずにはいられないと思う事があるのは不思議な事だ、とはいえこれは表現したいことというよりも吐き出さずにはいられない、という欲求から発生した文章であって、それは悪いものを出す、謂わば膿を出すという行為に近く、神聖さというものはここには宿らない。膿にも神が宿るだろうか、まあ創作行為を排泄に例える人間の書くものにも神は宿るし、誰かが宿ると思えば膿にも宿るのだろう、とはいえそれを思うのは私ではなく、他の誰かがやることであると思われる。

 

自分の扱い方が分からない、二十の半ばで分からないというのはどういう事なのよと思ったり、まだ二十の半ばなのだから仕方ないでしょうと思ったりする。私の周りの人間は歳の割りに穏やかであったり、扱い方がしっかりしている人間が多くいるような気がして、自分の駄目さにうんざりすることがある。私のすきな人間はいっていた、精神が低いところで安定している、加齢からくる諦念が人間を穏やかに見せていることはあると、私も低いところで安定したいし、諦念による穏やかさを得たい。

穏やかな人間に憧れるのは周りに穏やかな人間が居なかったからだろうか、強いて言えば父方の祖母は穏やかな方であるように思われる、思われるだけで気のせいかもしれない、人間生きていれば色々あるだろうし、腹のなかは見えない。彼女は遠い土地から嫁入りして、違ったかもしれないけれど大学を出ているとか、出ていないとかで、まあ教育をその時の女性にしては受けているはずの人であったはずで、こんな田舎の長男の家に嫁いできたのだと思うと、勝手なことを考えてしまったりもする。

そう考えると母方の祖父も穏やかな方であるような気がする、でも穏やかというのは違っているようなと言った感じであり、彼もまた雑な言い方をすれば大変な生き方をしているので、穏やかなだけではやっていけないだろうなとも思う。まあ人の良いひとであるから、穏やかな方であるのかもしれない、それで祖母は大変であったとは思う、とはいえ祖母はどちらかというと苛烈なタイプであり、祖父もまた大変であっただろう、いや彼らは今も現役で大変そうなのだが。

どうも私の一族にはそう考えると穏やかな人間が欠けているらしいと思う。父や母のことを思う、彼らに穏やかさがあれば、私たちは傷つかずにいられただろうか、彼らにとって私たち子どもというのはどういったものなのだろうかなどと思わずに済んだのだろうか。まあ多分関係ないのだろうとは思う、それに考えても仕方のないね。

ここまで書いて父方の叔父は穏やかだなと思うが、彼は彼で少し変なところがあり、いやまあ人間変でない人はいないという話をし出すと仕方ないのであるが、まあこの変さというのはある種の信仰めいた話であって。何かを信じるということは信仰だよな、まあ信じるものは救われるので良いだろう。頭の良い人は少し変で概ね穏やかなものかもしれないな、と職場の上司の事も思ったりするのであったが、インターネット上の人間は穏やかには見えず、腹の中よと思うのであった。

話があっちにいってしまったが、もう少し年をとれば落ち着くだろうか、加齢による諦念がわたしを救ってくれるだろうか。考えるのを辞めたい訳ではないけれど、苦しみから逃れたい気持ちはやっぱりあるのだよな、もっと違うことに脳のリソースを割きたいという気持ちはある。
とはいえ、表面的な穏やかさだけでいいのではないかなとは思う。どうせここまできたら真性の穏やかさなど手に入る筈がないだろう、生来の穏やかさのみが穏やかであるということではないし、30頃に穏やかさを会得してその後はずっと穏やかならばもうそれは穏やかであると呼んで良いようにも思われるのだけども。穏やかな人間になりたいけれど、多分穏やかな人間の思考回路は私には備わってないように思われる、回路をつくれば良いのだけど、そんな簡単にそう言ったことが出来るならば私はもっと幸せだっただろうよ。最近は妥協案みたいな、理想に近づきつつ、現実をそんなに捻じ曲げない方法を考えている気がする、これもまた諦念なのだろうか、とはいえ明日にはとにかく理想の実現のために邁進せよ、自己を破壊せよと叫んでいる可能性もある。
自分の狂気なんてあるのかは分からないし、自己愛の膨らみを感じてげんなりする表現ではあるのだけれど、自分の狂気を飼い慣らしている人間の方が好みだよなとは思う。飼い慣らした先に自分の機嫌を自分でとれるような人間になれるような気がしている、いつも手綱の握り方を考えている、どうやって握ったら良いのか、人間たちはどうやっているんだろう。考えなくても、ちゃんと扱えるのだろうか、それとも何もないのに何とかしていられるのだろうか。分からない、こんな事を考える方が駄目なのかもしれない。不機嫌だと言われると不機嫌になってしまうけれど、多分ご機嫌だと思われるより不機嫌だと思われていたいし、でも不機嫌なのは嫌だ。何だかんだ私はずっと不機嫌で愛想の良くない人間でありたいんだろうな、それってどんな欲求なんだろう、他者から求められるものが高くならないような予防線なのだろうか。なんて面倒くさい自己分裂、自己たちの鬼ごっこ

 

火が怖い子供だった。寝ている間にすべてが燃えてしまうのではないかと眠るのが怖かった、火の元を確認しないと眠れなかった。今でも家の鍵をかけた後、使ってもない火がついてないか気になって、台所に確認しに行くことがある。そんな人間がライターを扱っていると思うと少しだけ笑える、とはいえ煙草の火も消えているか不安になることが良くある。
怖いものが多い子供だった気がする、死ぬのも怖かった、それは火を恐れるよりも小さい頃だったはずだ、3歳くらいだろうか。何故そんな風になっていたのかは思い出せないけれど、恐れていたことだけは覚えている。死後の世界に持っていきたいものをお気に入りのプラスチックのケースに詰めていた、死ぬことを意識している癖に何かを、物体をあちらに持っていけると思っているのが可愛らしい。あのプラスチックのケースにはキティーちゃんの顔がついていたはずだ、でもキャリーケースだろうか、分からなくなってしまった、私は前者だと思っておる、何をいれていたかは覚えてない。とはいえ、死んだことがないから、実は持っていけるのかもしれない、本当のことなんて分からないね。
そういえば戦争も怖かった、小学生の冬だった。ニュースで流れるそれらが恐ろしくて、炬燵に潜り込んで、耳を塞いでいた。それらが過ぎ去ったか家族に確認して、そろそろと炬燵から這い出していた、炬燵はさながら私の防空壕だった。火が怖かったのも同じ頃だったろうか、覚えていない。すべてを消し去ってしまうものが怖かったのかもしれない、死ぬことを本能的に恐れていたのかもしれない、当たり前のことだろうけどそこまで意識しなくても良かっただろうに。
成長すれば、希死念慮めいた何かを抱える羽目になる。恐れていたそれを望むようになる。すべてを解決する冴えたやり方に見えるのだ、厭わしいものがすべて消えてくれたら良いのにと願うけれどそんなことは有り得ないのだから、ならば私が消えた方がずっと楽だ、というのが最初だったように思う。では今はもう思わないと言ったら嘘になるし、死ねたら良いのにとは思うのだけれど、それでも前とは異なった気持ちであるということだけは言える。穏やかな望み、あの切望、何が出来るという訳ではないけど、出来るという訳ではなかったからこそのあの望みとは今は隔たっているように思う。死にたくて仕方ないのに、死ぬことは恐ろしかったのだと思う、どうしたら良いのか分からなかった、やり方なら知らない訳でもないのに。今もそうだ、何も痛まないなら、何も損じないのであれば、何も奪わないのならば、穏やかに終わらせてくれるのならば。そんなことは有り得ないから、私は生きることになる、明日も。
今も何だかんだ怖いものが多い、人間が怖いと絶叫して見せるが、パフォーマンスめいて見えるだろうし、止めた方が良いのは分かっている、分かっているがやめられない、生きづらそうと言われたら、笑って誤魔化そうと思っている、そんなことを言っておいて。パフォーマンスではなく生きづらい方だと思っているのだけれど、でも生きづらいって本当は思いたくないのだけれどな、面倒くさい。でも本当は皆だって生きづらいでしょう、他人のことなんて分からないし、あなたのように生きられたら人生もっと良かっただろうにとか、どうしようもない時は私はわたしがいちばん生きづらい生き物のように思えてしまうのだけれど。

とはいえ、人生を怖がらずにどうやってまともに生きれるだろうか、怖がらずに生きている人間の方が、私はずっと信じられない、そういう人間が怖い、これもまた馬鹿げた安っぽい狂気なんだろうか。

 

病気なのだと言うとそんなに真顔で言わないでほしいと母に言われたのだけれど、そうとしか言いようがない。表情がなかったのは寝起きでぼんやりしていた為であって、別に演出ではない、とはいえ私はそう思っている。だってこんなにやめられないのだから。浪費も一種の病気だと思っている、それなのに本について調べてしまう。また馬鹿みたいに買ってしまう、怖いのに本のことを調べている間は安らかな気分になれる。

 

気がついたら、床で軽く眠っていた。休みの前日は特にそうな気がする、緩んでしまうのか床で眠ってしまいがちだ。起きなければと思うのに、あんまり足が冷たくて、座布団とカーペットの隙間、熱がこもったそこに足を入れたまま、動けなくなる。ぼわぼわとした頭、どろどろとなにかが溶け落ちていきそうな気分になる。勿論、何も溶け落ちず、私は寒さに震えている。

 

あなたのようになりたいという時、顔や見た目で思うことはあまりないように思う、なりたい有名人よりもなりたい顔も知らないインターネットの人間が多い、あるいは創作物のなかの人間。精神性に憧れる。

 

読んでいる本が読んだ本と遠くで繋がっている錯覚に陥る時、私はこれまで本を読んできたんだなと思える。この繋がっているという錯覚は私にしかないもの、個人的な錯覚だ。この個人的な過去の体験に結び付いていることは誰にも否定されることじゃないよな、という気持ちになれる。この繋がっているという感覚はテーマがとかではないので、正誤判断を他人から下されるものではない。解剖のシーンを読んで、他の本を思い出す、みたいな緩く淡い繋がりだったりするから。本を読まなくても、買わなくても、人は死なない、生きていける。でも生きていけない生き物はいる、いると思っている。私は買わなければ生きていけないと思っている、少なくとも今は。ここで読まなければと言えないところが私のわたしであるところであるね。

 

大して求められてもないのに過去をぶちまけて、解体してしまった。恥ずかしい自分語りだ、あまり人が見てないことを祈る、午前4時のうすあまい告白。とはいえ、こうしていると本当に私にとって過去になったのだなと思う。話をすると目が潤み、声が震えたことを思う、今では何もない、ないということはもう整理のついたことなのだと思わせる。すべてのことは後で評価される、終わった後にしか分からない、その時には判断がつかない、つかないけれどそれでも我々は決断しなくてはいけない、後で大きな代償を支払う羽目になろうとも。すべてのことが決断の先に善くあることが定まっていたら良いのに、決断に何の迷いもなくなるだろう、とはいえ定まったものを選ぶことは選んでいないのではないだろうか、決断って何なのだろうな。でも我々の生がこの先、より善きものになることが分かっていたら、この先も生きていけるのにな。まあ、そんなことを言っていても、このまま人生は大抵善くはならないし、続くのである。

 

 

今から読むのはきっといつもより出来の悪い文章たち、それでも吐き出さずにはいられないのは、私にとって書くという事はそういうことなのだという気持ちにもなる。

彼女のようなヒステリックとヒロイズムの昇華はないけれど。

 

ここ最近でもっとも明るく、穏やかな様子に思える窓の外に対して、私の内側は暗く、荒れている。昨日の晩も今日のことを考えて、どう考えても片付けなければ大変なことと思いながらも、陰鬱な気分に負けて、布団に沈んだ。眠る前から憂鬱だったように思う。データをひたすら取捨選択し、削除し続けていた。要らないものを捨てているのに、気分は良くならず、どうしてこんなものを抱えていたんだろうなどとせんのない事を考えてしまい、気分が少し落ち込んだ。何故だか分からない、最近はずっとそうだ。
最近は気分の照り降りが激しく、私がわたしに驚いてしまう、今だかつてないほどだとさえ思える。何だか苛立って、落ち込んで、仕方がない。理由がない不安感で胸苦しさに堪らなくなる。不安定であることを認識すればするほど、安定性を欠いていく。
寂しくて悲しくてどうしようもなく叫び出したいと思っていたのに、もう誰も要らない、私は大丈夫だと微笑みを浮かべてしまう。勿論、幻想でしかなく、私の笑みは凍りついて、すぐに剥がれ落ちて、顔を苦痛に歪ませる羽目になる。

 

共犯者が欲しい、私の人生の。何の共犯なのかは分からないけれど、共犯者と言われる存在が必要だ。別に人生にドラマや事件は要らない、嘘だ、あった方が楽しいが、それは些細なことで良い。毎日機嫌良く生きる為のスパイス程度が望ましい。とはいえ、きっと私は毎日不機嫌だし、そんな人生は訪れない。望めば叶うというが、望んでも叶わないことを望み続けるのは呪いだ、これもまた繰り返しになるが。

 

歯磨き粉と唾液の混合液を口から押し出し吐き出す時、からだの内側が捲れて、口から吐き出されてしまうような気持ちになる。私の内側が裏返って、剥き出しになるような感覚がする。えずく様はまるで老夫のよう。
窓のそばの椅子に腰掛けて、太陽の柔らかな光を見ていると、このままゆっくりと干からびて、どこからか吹く風に飛ばされて、消えてしまえるのではないかという想像をしてしまう。椅子に座っていた私は白く乾いた粉になっている。

 

本を読むのは好きなはずだが、上手ではない。読書に上手い下手などあるのかと言われるとない気もするし、あるのだよなという気持ちにもなる。私の感覚の問題なので、そんなことを思い悩む必要はないと言われてもこればかりは仕方がない。

本を読むときどんなことを考えているかと言われれば、あまりなにも考えてない。だから批評もない、面白かったかそうでもなかったか位しか言いようがない。まあ大抵は読みきれた時点でそれなりに面白かったという判断を下している気がする。私はキャラクターを愛しているから、構成とか難しい話は一切できない。あるいは読んでいて気持ちがよいか否か。良くいう文体が好きに当たるやつだ。読みやすいというのもこれに属すのかもしれない。要は非常に感覚的で感情的な行為なのだ、私にとっての読書は。とはいえ、私が難しいと思ってしまうこと、例えば構造についての話をしている人は好きだ。理論的な人間を好む私らしい好みであろう。だからこそ自分は不甲斐ないと感じてしまうのだと思う、これは訓練の問題であることは分かっている。何も考えずに読むことを止めて、読んだ後に出力をして、などの努力をすれば良いのである。そう、努力をすべきなのだ、もし自分の読書の仕方を嘆くのならば。
読書におけるシンパシーとワンダーの話もあるが、私の感覚としてはそこまでシンパシーに重きはおいてない。フィクションにまで共感を必要とするのは苦しい、現実だけで充分だ。私がわたしのままで他者の人生を覗けるのがフィクションの良さではないか、これはあくまで私の思いで、共感がすべてであるような人を貶す意図は全くないし、私の読み方を共感に重きをおいてると思っている人がいる可能性もあるので、そこら辺は擲ちたい。心に寄り添ってくれる本は好きだし、でもこれも共感か、よく分からなくなってきたので、これも投げます。思考放棄する豚と謗られても、構わない。いややはり構ってしまうので、謗らずに内心に留めておいて欲しい。
だからあまり私のための本だとか私のことが書かれている、みたいな気持ちはあまりならないし、ちょっと照れてしまう。ある若くて、素敵な海外の女性アーティストが言っていた。これは自分の曲だと思える曲があったら、それはあなたの曲であり、他人が愛情込めて作ったそれを自分に取り込めるのは良いことであると。あくまで彼女の考え方でしかないけれど、それはとても素敵で格好よいことのように思われた、だって彼女が、クリエイターが言うのだから。受容者が言ったところで何ともならないのだ、創作者が言うから意味のあることのように私は思う。

何故こんな話をするかというと、読んだ本にあまりにも見知った感情が記されていて、戸惑ってしまった。見知った感情という表現ではなんだか違う気もするし、けれども私のことが書いてあるというのはもっと違っていて、今出来るいちばんの表現は見知った感情である気がする。

 

何の音か分からない機器の連続した空気が抜けるような音、元気としか良いようのない同室の人、目を瞑る彼女の白んだ顔、赤と透明の管、揺れる緑の電子の線。不穏と安静と清潔さの満ちた空間は精神をひりつかせる。

上手くやれない、正しい振る舞いを知らない、ぎこちなさが私を押し潰す。あなたも私もいつかこうなるんだろうか、同じようにはならなくても、それは同じことだ。

老いと病はどうしたって追い付いて、腕をあるいは肩を組んでくるのだということ、仲良くしようと諦めたような笑みをあるいはねばついた笑みを浮かべてくるのだろうということ。

私はその頃には上手く振る舞えるようになっているのだろうか、あるいは彼らとの足取りの揃え方を学んでいるのだろうか。

 

消費だけが救済で、消費が私を蝕む。救済と破滅が入り雑じって、私と踊る。他の踊り方を知らない、いつだってめちゃくちゃな踊り方をあなたとはしてしまう。

余計に裂け目が広がっていく、踊る度にほつれてしまう。誰もドレスを直せないのに。

 

私のヴィジョンに彼女が入り込んでいるのを感じる。あなたには分からないかもしれない、あくまで私の気分の問題でまやかしで、そうありたいだけなのかもしれない。そうありたいとは思っていないけれど、出てくるものが普段と違っている感じがして、それは彼女の香りがするような気がしている。

ある人は付き合う人によってLINEの文章が変化する話をしていた。私の場合はどうだろう、出来の悪いコピーキャットのようだろうか、彼女のように書きたいとは思っていないのだけど。影響されている文章になっている気がして仕方がない。考えすぎだろうか、そうな気もする。

 

 

どうしようもなく日々機能が低下して、何でもなくなってしまう。元々大した機能もない訳で、人からしたら何も変わってないのだろうけれど、私はそう感じている。毎朝起きる度に朝を呪う。一生眠り続けて、こんな馬鹿げた考えたちから解放してほしい。眠っている間は何も考えないでいられる、とはいえ、夢のなかでも一応考えているだろうか、でも起きたらそれは忘れるから良いのだ。でもですね、起きていれば何かを考える羽目になる。もう何も考えたくない。嘘だよ、分かっている、思考だけが人生だ。

 

好きな女性が私が面白かった映画についてのエントリをあげていた。ああ、こういう見方も出来るよなと思う。彼女らしい、と思う。彼女のことなんてろくに知らない癖に。そういうものを彼女は多分嫌っているのに、そう思ってしまったのだから、仕方がない。そんなことについて、私自身に嘘をついて何になるのだろう。
同じものを観ても、同じように感じられる訳ではないし、同じように感じたとしても言語化の仕方によって、まるで違うことを感じたかのように感じられたりする。たくさんのフィルター越しに私たちは生きている。

彼女の文章からは全く感じなかった訳ではない、言語化出来なかった部分が言語化されているような気がした、何を言ってるんだと思わなかったからっていうただそれだけの理由でしかないのだけど。どこかで感じていたのかもしれない、感想を言う度に何か間違っている気がして、そう言えば分かりやすいけれど、そうは言いたくなさが私にはあった。それとも彼女の文章だからそう思っているだけなのか。だとしたら、本当に馬鹿げているのだけど。匿名であのエントリを読んだらどうだっただろう、でも私には彼女が書いたことを知っているから、もう分からない。私の公平性はどこにあるんだろう。とにかく分からないけど、ああ、そうだねと思ったし、彼女らしいなとも思ったのは変えようのない事実だ。
彼女の文章は、批評は、私の心を容易く揺さぶる。彼女のように書けたら、といつだって思ってしまう。書けたらどうなんだろう、どうしたんだろう、何になるんだろうな。それでも彼女のようになれたら、と思ってしまうね、今日も隣の芝生はとても青い。

 

自分の興味のあったものたちを削り落としている、断捨離を続けている。悪趣味な過去の悪癖、今してないのは私が変わったのか、そういう人が周りから居なくなったのか。多分、後者だろう。それは良いことでもあり、悪いことでもある気がする。目に見えない過干渉、私の飽くなき好奇心。悪いことでは絶対ないのだけど、何だか褪せていくような気がして。褪せてしまいたいと思っている癖に、矛盾しているなといつだって思うけれど。矛盾は私の魅力ですか、誰か私のこれを肯定してくれ、とはいえ私が認めなければその肯定に意味は発生しないのだけれども。

 

己の空洞を埋めなさい、囁き声が頭のなかで反響する。ぶわぶわと、頭を埋めていく。音楽を聴きなさい、映画を観なさい、本を読みなさい、食べなさい、飲みなさい。知らないものを内に入れることは知ることだ、そう思うと食も小説などと変わらない。

何でも知ってるねと言われるとたじろいでしまう、私は何も知らないと思う。実際、知らないんだ、何も。まるで嫌味のように感じてしまう、そういう考え方は悪いところだけど、でも思い上がる位なら卑屈な方が性に合っているんだよ。可愛げはないかもしれないが、何も知らないより何かを知っている方がいい。知っているという優位性がある、優位性なんて思っている時点で駄目で可愛げがないことは分かっているのだけれど。そして繰り返し申し上げるが、私は別に知っている方でもないのだけれど。
可愛げが欲しいのかと言われると分からない、いや嘘だ、可愛げがある方が良い。良いのだけれど、努力をするのは面倒臭いし、私はさっき思った事をすぐにひっくり返すような人間であるから、これを書いた明日には違う考え方をしている可能性はある、繰り返し書いていれば、多分本気で思っていることになるので、今後に注目して欲しい。

無知が可愛いのは若い間だけだろう、多分。私の悪いところのひとつは男性は馬鹿がお好みだと思っているところ。とはいえ、男性好みのお馬鹿な女の子は私よりずっとクレバーだ、分からないけれど。これは私のイメージでしかない。本当の意味でお馬鹿な女の子は彼らの好みではないとは思っている、でもお馬鹿な子の方が好きなんでしょう、とも思う。その加減は私には分からない、私はお好みのお馬鹿さではないという確信がある、私が馬鹿ではないと言ってるわけでは勿論ない。とにかく、卑屈だからこんなことを考えてしまうのだろう、多分。

 

音楽が変わるだけで景色が違ったように見える。BGMが違うだけで映像の雰囲気が違って見えるように、景色だって違って見えるのかもしれない。とはいえこれは現実で誰かが撮った映像ではないから、気分の問題でしかないことは分かっている。気分はつる植物のよう、気分にすべてが絡めとられて、ずぶずぶになってしまっている。

寝る前はあんなに安定していたのに、起きたら地の底だった。毎日それの繰り返しだ、眠る度に死んで生まれ直しているのだろうか、だとしたら仕方がないと思える。連続した精神なのか私のものなのに疑わしい。

外れることを厭うならば、自分で完全に定めた規律を作ってから厭うべきなのではないかという発想で頭が膨れる。発想を現実にしたいと思いながらも、DVDなどを観る。人嫌いで傲慢な性悪女が主人公だった。私は品が良くありたいと思っている。思っているが上品なだけの人生など面白みに欠けるのも分かっている。上品で面白みのない人生こそ、あなたが望む淡々とした生なのではと言われると否定もしづらい。
私の自己を引き裂くのはいつだって私自身だ。理想と現実だけではなく、理想と理想ですら矛盾しあって、バラバラになっている。繋ぎあわせられるのは私しかいないのに。
上品な顔をして中指をたてて生きていきたいと思っている。何もかも分かってほしいけど、何も分かってほしくない。知ってほしいけど、踏み込んでほしくない。偽物を纏って騙したい、騙していることを悟られたい。単純に見えて、底が分からなくありたい。すべてが厭わしい、煩わしいのに、すべてを欲している。ひとりは疲れるけどひとりは楽だ。いったりきたりで目が回って、苦しくなる。一体どちらなんだと思うが、それはきっと両方正しくて、どちらかをやめることが出来ない。浅ましい願望だ、底の浅い私の願い。いつだって多面体でありたい。
多分、出来るならば矛盾を愛して、抱き抱えていたい、きっとそうするのがいちばん現実的だ、妥協案だ。捨てたいと喚きながら、すべてを捨てられない私にとっての。本当はグレーを好めばいい、好みたいのにどうしてかいつも黒か白かをはっきりさせたがる。複雑でありたいと思うと同時に、単純明快さを求めている。

好きなものがたくさんあるのは良いことだという素敵な女の人の言葉を聞く。私は物を持たないのが好きだという言葉も聞く。私もそうなりたかった、頭のなかも自室も、データも抱えすぎている、無駄なものたちを。

白黒つけなくていいじゃない、今有している私の複雑さを好ましく思っている人が1人でもいるならば、生きていけるじゃないかと思うのに、難しい。複雑さのある人間でありたいと言って、複雑怪奇な人柄を有していると言われると、怪奇……となってしまうが、複雑さを感じてくれる人がいるということ、そういう複雑さがあなたの魅力であるのだと言ってくれる人がいるということを思う。珍しくもそうなのかと納得し、安心したくなってしまう自分がいる。

とはいえ、私はわたしに何度も繰り返し耳に囁き続けている、ずっと繰り返し言い続けている、己を愛するのは己のみであるということを。己を愛してくれる他者は有り難いが、結局のところ、どこまでも他者でしかなく、私がわたしをというところに帰りついてしまう。私がわたしを認めない限り、許さない限り、愛さない限りは、このままであるということ。

 

 

 

ブログに書きたいことがあった気がするのだけど、瞼を閉じている間に浮かんだ言葉たちは眼を開けば溶けてしまった。一体何だったのだろう、とても良いと思った筈なのに、忘れてしまった。

この強い風に吹き飛ばされてしまったのだろうか、この強い雨に流されてしまったのだろうか。風と雨が私の頭の中にまで入り込んでくる。頭が爆発してしまいそうだ、どうせならこのまま中身をひっくり返してしまいたい。

とはいえ、内容じゃなくて、表現だった気がする。でも内容も思い出せないから、何も分からない。どうせいつも通りの、繰り返しの、馬鹿げた内容の言い換えだった気がするのだけど。

 

私は母親になったことがない。あなたもそうだろう、父親になったことがない。

分かっている、私はあなたの恋人で娘ではない、分かっているのに私は時々あなたの娘ではあるような気がする。

私は想像する。あなたと二人きりで生きてきたことを、あなたが一人で育ててくれたことを考える。私には母がいなくて、あなただけ。父子家庭で、絶え間なく降り注ぐ愛の中で育った。
そんな私は大きくなってしまった、ティーンエイジャーになってしまった。

あなたが自転車の練習に付き合ってくれたことを思い出す、補助輪を外す練習を。

本当にはあなたとそんな練習はしていない、分かっている、だって私はあなたの娘ではないのだから。それでも私は見ているのだ、川のそばの広い道路、背の高い草、あなたの着ていたTシャツの色を。

そして、どれだけのことをあなたがずっとしていてくれていたかを思うのだ。これまでのことを、ずっとしてくれていた様々な愛の形を。それでも私は反抗的になる、子供は成長する。喜ばしくも、悲しくも生きていれば成長してしまう。

あなたの夕飯の時に机越しの喧嘩をする。広いテーブルに、あなたと2人。温かな料理が私の言葉で冷めてしまう。

あなたはどこまでも理路整然としていて、私はいつだって感情的。私の熱の入った言葉は料理を温めるどころか、冷ましてしまう。どこまでも子供じみている。子供じみているから見えない大事な線を踏み越えて、踏みにじるのだ、何もかも。あなたの傷ついた顔を思う。私は大きくなってずっと前よりも痛みを感じられるのに、前よりもあなたにそういう顔をさせるようになってしまった。

何も忘れたことはない、ないのだ。どれだけ私は愛されていたかを。今も愛されているのかを。無条件の愛を、一身に受ける幸福を、忘れてないのに。

そんな馬鹿げたことを思う、馬鹿げた文章を書き綴っている。何でだろう。多分、最近読んだ本に影響されているのだ。ここに少しばかりのSF成分を加えてみたらどうなるだろう、いやこれはどうにもならない駄文でしかない。

 

どうしてこんなに寂しがり屋なんだろう、どうしてこんなに欲張りなんだろう。どうして、どうして。いつだってどうしてで頭がいっぱいで、無理矢理答えを出して、また同じ問題で頭が膨らんで。頭がぼわぼわとする。死ぬまでこうなんだろうなと改めて思わされる。
みんな苦しいから考えるのをやめるんだ、今も中二なんだとそういう話をされた。なりたい自分について考えないんだろうか、考えないのだという、だって苦しいから。考えてない自己を見つめる私は本当に考えてないんだろうか、そんなことは考えたことがないと言う。私はいつだってそんなことを思っている。

絶え間ない自己否定、その先に一体何があるんだろう。黒い穴の底には何があるんだろう、何もないと思っているのに、何があるのかをいつだって考えてしまう。何かあってほしいと祈ってしまう、そうだ、本当は何かしらを見付けたいのだ。このどうしての先に、私は本当は答えを望んでいる。何もない、以外の答えを。
いつだって何もないのだと自分に言い聞かせている、生きている意味とか。せんのないことを考えるときのベストアンサー、何もないのだという答え、諦念を甘受せよ。
堂々巡りを繰り返す私は滑稽で、子供じみているんだろう。馬鹿みたいだと本当は思ってるのかもしれない、新しい価値観だなんて笑わせる。

でも私は本当はやめたくないんだと思う。滑稽で馬鹿げていても、死ぬまでこのままでいたいんだろう。苦しいままは嫌だけど、苦しみを取り除く為にやめるというのは違っている。というよりもやめられないという確信がある、とりあえず今のところはだけど。それを確信と呼べるのかは分からないけれど、苦しまない為にやめられるならきっともうやめているだろう。こうやって呪ってなくたって、きっと。

 

私が好きなほどには好かれない、そんなことばかりで苦しい。だからわたしに興味がない人間が好きだ、最初から期待しないでいられる。本当にそうだろうか、本当はいつか興味を抱いてくれるんじゃないかって期待を捨てられずにいるんじゃないのか。いつだって虚しい、誰にも好かれないような気持ちになる、自分に自信がない。自暴自棄だ。いつだって一方通行で、過多だ。

誰かも私にそんなことを思うのだろうか、分からない、善意にはどこまでも鈍感なままでこうやって息をして、善意を踏みにじって、悪意にまみれていると馬鹿みたいに嘆いているのかもしれない。

孤独を愛する人間にはなれないから孤独の香りをするものを愛する。孤独になりたい訳ではない、なりたい訳ではないけれど、孤独だと感じてしまうのならば、愛したい。孤独だと思わない精神が欲しいとはそこで思わないのが、私のわたしである所以なのかもしれない。ある小説ではひとりでも平気な人間は特殊な性質のように書かれていたことを思い出す、少し表現が違うかもしれないがまあ概ね主流ではないといった表現であったように思う。なれないと思いながらも、なりたいと思い、そういう人間を愛してしまう。

青い芝をどこまでだって私は愛するのだ、持たないものはいつだって美しく見える。見えるだけかもしれないと、思いながらも。私のものを誰かも美しいと思ってくれるんだろうか、馬鹿げた想像だ。

 

欲求にだけ素直になった読まない本、繰り返し飲むチルド飲料とテイクアウトのカフェラテ、身体を蝕むニコチン、1杯淹れる度に塵になるコーヒーフィルター。

無駄なものが私の人生には多すぎる、節制出来るものたちが私の人生を形作る。この文章だって無駄だけれど、きっと書きたい内は書くのをやめられない。後でどうしてこんなものを書いたんだろうと後悔する羽目になったとしても。

全部削いでしまいたいのに、どれが欠けてもわたしが欠けてしまうような気持ちになる。いつだってそうなのだ、何だかんだ自己否定しながらも、自己肯定をしている。馬鹿馬鹿しい、無駄な考えだ。鈍感になるのを喜びながら、繊細さを失うのを厭うように。早くどちらかを諦めた方が良いんだろう。変わりたい気持ちか、変わらないでいたい気持ちを。どう考えたって後者を諦めたいのに、多分ずっとぐるぐる回り続けるんだろう。

結局、無駄なものを愛している。無駄なもののコラージュで私は作られている、ガラクタめいているのだ私は。全部無駄だ、棄ててしまいたいと喚きながらも、私を作っているものたちだから、捨てられずにいる。全部をこの両腕に抱き締めている。